西尾の文化財(9)  上永良神明社の大シイ  (+平原の滝)

自然探訪シリーズということで。

シイ

国指定の天然記念物です。パッと見た感じでは、へぇ~って感じですが。というのも、主幹が枯死しているから、樹齢の割にはこじんまりとしているからだと思います。それでも樹齢千年と推定される県下最大の古木ということです。

モコモコ内部の様子

それでも、主幹が枯れていることは、文化財としては問題ではないみたいです。昭和8年に天然記念物に指定された際、すでに枯れていたみたいですから。ひこばえたちは、まだまだ元気に見えましたよ。

指定文書を石碑にして新たに建てた説明書きが。面白いから、転記します。

石碑(新しくできたもの)

説明 目通幹囲8メートル 主幹は朽ちたるも数本のひこばえ出て、鬱蒼たる樹木にして巨樹として有数たり。
注意
一 構内に立ち入り根に傷せざる事
一 枝葉の伐採を為さざる事
一 その他樹木を棄損する行為をなさざる事
右犯す者は国法に依り処罰せらるべし
昭和八年五月十日 文部省

「国法に依り処罰せらるべし!」気概がいいですね〜。

さて、この神社は貞観年間(859〜877)創立と伝えられています。祭神は天照大神等。まあ拝殿のすぐ前にシイがありますから、木がご神体みたいなもんです。

拝殿

寛文二年(1625)の再建には、この地とされる武将の加藤嘉明(よしあき)が力を貸したそうです。そして、神職に「加藤」の姓を与え、昭和初年に「生誕地」の石碑が建てられたそうな。

生誕地の石碑

加藤嘉明    賤ヶ岳七本槍の一人  水軍の武将として有名(九州征伐や文禄・慶長の役)。豊臣・徳川につかえた大名で伊予松山、陸奥会津藩主。

ぱっと碑を見たとき、「加藤高明」だと思ってびっくりしてしまいました。愛知県出身の、第24代内閣総理大臣です。残念・・・こちらは愛西市の出身のようです。名前が似てますが、改名したもので加藤嘉明とのつながりはなさそうですね。

帰りがけ、涼を求めて平原の滝に立ち寄ります。

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たいてい下の写真が、「平原の滝」として有名です。滝行やったりとか。

「平原の滝」として有名な写真

でも・・・僕はこれ、「滝の写真」じゃないと思うんですよね。 確かに落差はありますが、背面はコンクリートでガチガチに固められているし、そこに竹の水路を突き出した人工構造物だし。滝ってのは、基本的に自然構造物だと思うんだよね。滝行の行場撮影なら、これでもいいけど。

実際現地に行ってみると、こちらは「小滝」と呼ばれ、その奥にちゃんとした滝(大滝)があります。なんだ、こっちを滝の写真に使えばいいのに。

大滝

傍らには薬師堂もあり、修行の場であることがわかります。この滝は慈覚太師(円仁)が平原の里に泊まった時、不思議な夢を見てこの山に滝があることを発見し、薬師如来を彫って祭ったのが始まりとか。それ以来、滝は「薬師の滝」と呼ばれ、滝水を飲めば長寿に、打たれると難病も治ると伝えられているそうです。

ただし、「飲用には適さないので、飲むな〜」と看板が立ってますが。

薬師堂
ひっそりと咲く花

まあ、霊験はともかく、山の中で水の近くにいますから、わりと涼しいです。とはいえ、駐車場には電光掲示板を備えたカラオケスペース?があり興ざめ。そんなことは町でやればいいのに。

散策路が整備されています。

キャンプ場も併設されていますが、観光通路のすぐわきで、ここでキャンプするのはちょっと抵抗あるな〜。    観光地としての洗練度は、いまいちといった感じでした。

西尾の文化財(8) 長圓寺(板倉氏菩提寺)

長圓寺(ちょうえんじ)は、江戸初期に京都所司代として活躍した板倉勝重とその一族の菩提寺です。寺ができたのは寛永7年(1630)と新しいです。

なかなか立派な山門です。お城みたい。山門前に駐車場があります。

山門(1630市文化財)
本堂(1816)文化財ではないけど、かなり立派

板倉勝重は、天文14年(1545)に岡崎市北部で生まれました。次男だったので、小さいころ、禅宗のお寺に入れられ、僧侶をやってました。ところが徳川家(松平家)の家臣だった父親がおが戦死、後を継いだ兄貴も戦死したため、徳川家康に「お前が跡を継げ~」と言われ、1581年に還俗して板倉家を継ぎました。禅宗の坊主を30年近くやってきて、戦国時代の武家が務まるんかな~? うーん。

が、勝重は主に民政面で重用されます。良かった~

例えば、1586年駿河町奉行を始め、江戸町奉行等で、業績を上げます。関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601年)、三河国に6,600石を与えられ京都町奉行(のち京都所司代)に任命、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に務めます。元和6年(1620年)に息子に譲るまで京都所司代を務めました。その間に大名になります。

武芸に優れた武将 ではなかったかもしれませんが、禅僧だった時の教養と経験を生かせば、大名や公家、寺社との付き合いや折衝は、得意だったのでしょう。さらに庶民の間では、名奉行と慕われました。家光の乳母「お福」を推薦したのも彼だという説もありますね。

息子は、長男重宗・・・京都所司代を三十五年勤めあげる。 次男重昌・・・島原の乱の総大将。でも配下の大名があんまり言うこと聞いてくれなくて成果が上がらず、総大将は老中松平信綱に交代。交代の前の総攻撃で戦死。

しかしまあ、板倉家は代々大名として続き、明治維新時は備中高梁藩主。当主勝静は幕府老中として徳川家に忠誠を尽くし、戊辰戦争を五稜郭まで転戦して戦いました(途中離脱)。

えーと、寺の話に戻ると、勝重が岡崎に立てた菩提寺を、重宗がここへ移したのが始まりです。たぶん、菩提寺をゆかりの領地に立てたのですね。 旗本、大名としての板倉家は勝重からなので、初代様の木像をつくり、肖影堂を造って墓の代わりとし、祭りました。(ともに県文化財

肖影堂への道  趣あり
途中に手水鉢があり・・・
なにげに本阿弥「光悦」の刻銘!
肖影堂 簡素ですが、着色が残って(維持されて)います。 額は石川丈山だそうです。そういや丈山はお隣安城の出身ですね。

また、寺は「万燈山長圓寺」で、万燈山のふもとにあります。

本堂の額

万燈山に登ると、北側が一部草が刈られ、市が一望できる場所があります。

草が刈ってあるのは、お盆に死者を弔う火祭りがあるからなんですね。 「かぎ万燈」といいますが、一説には京都の大文字焼のもとに、なったとか、ならなかったとか・・・

 

なお、お寺と万燈山は湿度が多く、蚊が多いので注意。だからなのか、万燈山はシダが奇麗でしたけど・・・

しーだ。