名鉄三河線は、なんであんなところを走っているのか?

名鉄三河線。廃線区間も含めると、豊田市の西中金駅〜西尾市の吉良吉田を結んでいた路線です。トヨタ自動車が来てから、沿線には関連会社が多くできて栄えていますが、先にあったのは鉄道路線なのです。原野や海沿いのそれほど栄えていたわけでもない場所に、なぜ線路が引かれたのでしょう?

wiki名鉄三河線より拝借。赤で囲った部分が三河線

この路線決定には、以前の記事で取り上げた、地元出身の実業家「神谷伝兵衛さんも関わっているようです。伝兵衛さんは、「三河鉄道の社長」だったのですが、この三河鉄道の路線が、現在の名鉄三河線に引き継がれるので。

まずその起源です。

1910年11月に刈谷出身の代議士三浦逸平や刈谷の有力者大野介蔵、太田平右衛門、高野松次郎らと大阪の才賀電機商会の才賀藤吉ら計31人が発起人となって、大浜(現在の碧南市)から高浜を結び、刈谷駅で東海道線に接続し碧海郡役所のある知立を結ぶ碧海軽便鉄道軌間を申請した。

名鉄三河線 歴史

wiki名鉄三河線からの引用です。大浜ってのは、江戸時代に「三河五港」と言われた港の一つ。高浜は「三州瓦」生産の中心地。瓦は重いから、鉄道で大浜港まで運ぶ需要がありそうですね。さらにどうせ線路を繋ぐなら、郡役所所在地や東海道線につなぐのは合理的。この路線の意味は分かる。 それから・・・

1913年1月刈谷から大浜港までの工事に着手したが、不況により株式の払込が不調であり、また株主から経営者に対する不満から武山勘七は社長を辞任。久保扶桑にかわった。1914年9月に久保(社長)が死去、さらに事業不振の責任をとって役員全員が辞任するという事態が生じていた。困った株主達は神谷伝兵衛に社長の就任を要請し1916年4月になり神谷は社長となった[

引用元 上に同じ

「じゃぱんでぃすぷれい」みたいなながれだなあ。ここで真打ち伝兵衛さん登場!さあ、この苦境をどう打開するんだい?

神谷は1916年11月に臨時株主総会を開き猿投越戸まで路線を延長すること、資本金を125万円にすることを提議し決議を得た。そして自ら沿線町村をまわり株の引受を依頼し応募は順調にすすんだ。路線は1920年7月から順次開通し1922年1月に越戸駅まで開通した。開通してまもなく財政を立て直した神谷は4月に死去した。

しばらくの間社長は空席状態が続き、専務に東京渡辺銀行の渡辺勝三郎がついた。1924年2月には増資して資本金を525万円とすることにして北は足助町、南は蒲郡町への延長と既設線の電化を決定した。1926年11月になり2代目神谷伝兵衛が社長に、専務には電気鉄道経営の専門家として伊那電気鉄道社長の伊原五郎兵衛がついた。1926年9月に神谷駅(後の松木島駅)まで延長され、1928年には吉良吉田駅まで開通した。

引用元 上に同じ

へ?沿線町村に増資引き受けをお願いすることは分かるんだけど、なぜ 「猿投越戸まで路線を延長する」って打って出るの?勝算は?さらに10年もたたず 、さらに「北は足助町、南は蒲郡町への延長」 って※・・・恐ろしいほどの攻めの経営です。伝兵衛さんたちはいったい何を狙ってたんでしょう??

調べた結果。僕は「塩を中心とする大量の物流輸送を矢作川舟運から奪う(あるいはその代替)ための路線として活路を見出す」ことと推察しました。以下状況証拠を箇条書きにします。

・江戸から運ばれた干鰯や三河湾沿岸で生産される塩などは平坂湊で川船に積み替えられ、矢作川を遡って岡崎・豊田方面に送られた。

・川では土場と呼ばれる船着き場で、問屋から頼まれた荷物を船に積み込み、目的地まで運んだ。  

・春から夏は河口から平古まで帆を張れば2日で到達。しかし秋から冬は逆風のため帆が使えず、櫂で漕ぐため4〜5日かかる重労働となった。 

以上と下の図は 矢作川流域開発研究会「矢作川とその流域」 より
川船とその航路・土場 

※下に出てくる「古鼠」のほぼ対岸が、「越戸」に当たることに注意

 

・饗庭(吉良の地名)塩など三河地方の塩田で造られた塩は平坂港、西国からの塩は大浜港で船に積まれ、川をさかのぼり岡崎の塩座で税金を納めたあと、信州へ運ばれた。矢作川を遡った場合、古鼠の土場で塩を降ろし陸路で足助へと運ばれた。 支流巴川を遡った場合は平古の土場で陸揚げされ、足助まで運ばれた。

・足助で塩俵を詰め替え、内容量や品質を調整して「足助塩」として信州へ送り出した。  

・明治16年から23年の年平均で、 1万7千俵の塩が平古から足助に入っている。明治24年には 古鼠から 3700俵が足助に入っている。 年間2万俵を超える塩が塩問屋に入り、信州に運ばれた。年間延べ5千頭を超える馬が行き来していたことになり、中馬街道と呼ばれた理由がわかる。 

以上 上伊那郷土研究会「伊那路」

・矢作川から農業用水を取得する明治用水の完成は1881年、枝下用水が1893年。(ともに矢作川の水量を減少させ、舟運を阻害する要因。)1929年には、矢作川に越戸発電所(ダム)が完成。 矢作川は堰き止められ、舟運は不可能に。

1905年、国は塩の専売制をスタートさせ、吉良吉田に名古屋専売局吉田出張所を設置。 また1910年と1929年に塩田整理を実施。東海地方の塩田は吉良、一色(ともに西尾市)、塩津(隣接する蒲郡市)を残して廃止

西尾市吉良歴史民俗資料館「吉良饗庭塩の里パンフレット」

ということで、矢作川の舟運と饗庭塩の歴史を紐解くと、三河線にゆかりのある地名がゴロゴロでてきました。 

矢作川下流域では製塩が盛んであり、その中心が吉良吉田(饗庭塩)でした。それらを矢作川水系を利用して古鼠や平古に荷揚げ、それから足助まで運ぶ運送の大動脈があったのです。

しかし、秋冬は川を遡るのに4〜5日もかかること、農業用水の開発により舟運が厳しくなってきたこと、さらに塩の生産が吉良吉田、蒲郡、一色にまとめられ(すべて三河線南方延線予定地)、越戸にダムを建造し、舟運が使えなくなるす計画があったことから(鉄道を引けば、ダム建設の資材運搬にも使えるし)

1916年あるいは1924年の時点で、三河鉄道の幹部たちは「蒲郡または吉良吉田から古鼠(越戸)さらに足助まで路線を引くことで、舟運が担ってきた信州への塩を中心とした物資運送を代替し三河鉄道は生きていける!」と経営判断をしたのではないでしょうか。その遺産が現在の名鉄三河線に残る と。

ついでに傍証ですけど・・・足助から信州に送られた塩や物資は、伊那街道を北上し主に伊那谷(南信)の需要に答えていくのです。その伊那街道の運送をになったのが、伊那電気鉄道。

飯田線の前身の一つ

1907年9月に伊那電車軌道が設立となった。最初の開業区間は1909年の辰野 – 松島(伊那松島)間。
その後は、資金を調達次第路線の延伸が図られ、1911年に伊那町駅(伊那市駅)まで開通した。1919年に社名を伊那電気鉄道に改称。1923年には、全線が軌道から地方鉄道法による鉄道規格に変更され、1927年(昭和2年)12月26日には悲願だった天竜峡 – 辰野間が全通した。

伊那電気鉄道

三河鉄道が、伊那電気鉄道から専務を迎えている(「三河鉄道の専務には電気鉄道経営の専門家として伊那電気鉄道社長の伊原五郎兵衛がついた。」)のは、鉄道の電化技術が欲しかっただけではなく、送った先の需要情報やら状況を、よく知っておきたかったからという理由もあったんじゃないかと。場合によっては合併してもいいんじゃね? と思ってたりして。

その計画が吉と出たか凶と出たか。その後鉄道運送はトラック運送に取って代わられていくわけですけれど。

 

※最終的に三河鉄道は南は蒲郡まで開通。北は足助まで届かず途中の西中金で打ちとめになります。足助まで伸ばしても需要が見込めなかったのでしょう。

が、「なんで三河線の終点が西中金?何があるのさ?第一行き止まりだよ・・・」って人々が疑問を抱くことになります。まあ、猿投より北と碧南より南は現在、不採算路線として廃止されていますが。

5月14日追記 先日発売された、本多徹「奇跡の一代記 神谷伝兵衛物語」によれば、三河鉄道の猿投延伸は、猿投の少し先にある枝下(しだれ)地域で採取される木節粘土に着目したからという説明が載っています。採取した木節粘土を三河鉄道で刈谷まで運び、刈谷の工場でレンガを作って、東海道本線で関東へ出荷する、そのために1918年に「東洋耐火煉瓦株式会社」を設立し、その取締役になったそうです。 

令和2年11月12日追記  もっとも、三河線の目的に「矢作川の舟運を鉄道輸送に切り替える」という理由は実際にあったのかもしれません。というのは、名鉄三河線(三河鉄道)の前に計画された「信参鉄道」において、矢作川舟運と中馬街道の馬による物資輸送を鉄道輸送に変えるという計画があったからです。

碧南市文化財保護審議会の発行した「矢作川開削と下流域村々の変容」という解説本に、以下のような記載がありました。「明治三十三年(1900)、新川港を起点とし安城・挙母(豊田)を通って信州の飯田に至る信参鉄道の計画がされた。矢作川水運、馬の背を使う中馬街道という「塩の道」を鉄道化するといったものである。・・・しかしこの計画は日露戦争後の物価上昇などで資金が続かず、失敗に終わっている。 大正三年(1914)刈谷から大浜港に三河鉄道が敷設された。国内物資の輸送は船舶から鉄道輸送という新たな時代を迎えることになった」

つまり、