松井忠次

現在、西尾市図書館(岩瀬文庫)で開催中の 「家康を支えた武将 松井忠次」展を見てきました。 大河「どうする家康」関連でしょう。   

西尾市出身の武将(お墓も西尾に・探訪記はこちら)ですが、いぶし銀のような武将を選びましたねえ。

松井忠次さんについての概要は以下の通りです。

三河国幡豆郡饗庭郷(現西尾市吉良町小山田)出身の武将・松井忠次は、東条松平氏の同心となり、徳川家康のもとでの活躍によって譜代大名・松平周防守家の祖となった人物です。
 姉川や三方ヶ原、長篠の戦いなどの家康の主要な戦いで最前線に立ち、その功績により松平姓を賜り、天正11(1583)年に沼津・三枚橋城主として亡くなるまで家康を「武」の面で支え続けました。
 その後、忠次の子孫は譜代大名として老中3名を輩出するなど幕政を支え、丹波篠山城主や石見浜田城主などを歴任したのち、川越城主として幕末を迎えました。 

本展では、西尾市で初公開となる数々の資料を通して、家康のもとで数多くの戦功を挙げ、小領主から松平姓を賜る大名にまで出世した松井忠次の生涯を紹介します。

※『寛政重修諸家譜』によると天正3(1575)年頃、家康から「松平」姓を許され、同時期に「康」の字をもらい、康親と名乗ったとされますが、本展では松井忠次で統一します。

会期2023年6月10日(土)〜2023年9月10日(日)

特別展「家康を支えた武将・松井忠次」

でもねえ、家康の部下と松井忠次って、あんまり聞かないですよね。本当に「松平」という名誉ある名字を与えられるほど活躍したの~?

家康が、松平氏と直接の血縁関係はないのだけれど、松平を名乗る許可を与えた譜代大名家が3家あります。松井家、戸田家、大河内家です。

戸田家は時の当主が家康の異父妹と婚姻したから、大河内家は時の当主が長沢松平家の養子となったことから松平姓を与えられたのですが、松井家はそこまで明確な理由はありません。能見松平家の娘を妻に迎えたのですが、松平家の養子に入ったわけでもない。

 ”家康の主要な戦いで最前線に立ち、その功績により松平姓を賜り・・・家康を「武」の面で支え続けました”というくらいの武将なら、「徳川××神将」と呼ばれる武功派功臣群に入っていてもおかしくなさそうなのに、彼の名前はありません。

徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称。更に12人の功臣を加えた呼称を徳川二十八神将と呼びこの28人は日光東照宮に配祀されている。人選の基準は不明だが、大部分は三河時代からの家臣で、領土拡張期に家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちである。このことから世が治まり吏僚派の家臣が台頭する中で、創業期の苦しみや活躍を後世に伝えるために選ばれたと考えられる。

徳川十六神将

うーん? 武功抜群というわけでもなさそうな気がしますが・・・

天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、駿河国沼津の三枚橋城に在城して、駿河国富士郡・駿東郡の郡代を任されて後北条氏と対陣する。以後康親・康重2代にわたり約8年間、ここを拠点に北条氏と戦う。松井忠次(松平康親)は三河東条城、遠江牧野城と、徳川氏領国の東側境界の要所を任されてきたこと、駿河の東部二郡は戦国時代において北条・今川・武田の三氏の間で独自の地位を保ってきた葛山氏の支配地域であったことから、郡代としての権限が与えられたとみられている。

松平忠次は「康親」を名乗ってはおらず、その翌年に没していることから康親への改名は事実ではなく、次代の康次が家康の偏諱を与えられた事実が誤認された伝承である可能性を指摘している

松平康親

長らく徳川家の領土東側の最前線を守る信頼厚い武将だったことは間違いなさそうです。もちろん、武将として一定の武はあったのでしょうが、むしろ「最前線の統治に非凡の才があった」のかなあと。

西洋で言えば強大な権限を与えられた「辺境伯」みたいな。それゆえ、政治・外交上の都合もかんがみ、特例として松平姓をもらったのかも、なんてね。

フランク王国の国境軍事地区(マルク(Mark):辺境地区、辺境伯領)に設けられた、国土防衛の指揮官・地方長官の称号がはじまり。 異民族と接しているため、他の地方長官よりも広大な領域と大きな権限が与えられており、一般の地方長官である伯(Graf, count)よりも高い地位にある役職とみなされていた。

wiki

あと面白いのは、忠次の後を継いだ松平康重という人物です。この人、徳川家康の落胤とする説があるようで。事実だとしたら、この家に松平姓を与える有力な根拠になりそうですが・・・さて。

実は徳川家康の落胤とする説がある。生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま康親に嫁いだとされる。元服の際に家康から「康」の偏諱を授かり後に子孫も家康の「康」を通字として用いている。

松平康重

康重の代に大名家となったこの家は、松井松平家あるいは松平周防守家と呼ばれ、老中も輩出する名門となります。ともあれ、康重は徳川氏の藩屏として、あちこち居城を変えています。

~1590/三枚橋城(静岡県沼津市)1590~1601/騎西城(埼玉県加西市)1601~1608/笠間城(茨城県笠間市)1608-09/八上城 1609~1619/篠山城(兵庫県丹波篠山市)1619~/岸和田城(大阪部岸和田市)

徳川氏が最大の敵である豊臣氏を大坂の陣で滅ぼすのが1615年。この前後、康重は初代丹波篠山城主でした。

一般的に、駿府、江戸にある徳川氏の大坂方への備えは 彦根城の井伊氏(1602井伊直政が彦根に築城開始)、津・伊賀上野城の藤堂氏(1608藤堂高虎が津、伊賀を領する)、そのバックアップとして尾張清州城の徳川一門(1602家康4男、松平忠吉清州城主に。1607年忠吉死去により9男義直が清州城主、1609年より清州城に変わる名古屋城築城)とされますが、その反対側の要の一つが丹波篠山城なのです。

これらの要は幕府が大名に築城を命じる「天下普請」で造られる堅城となっていました(他の対象は徳川一門の居城)。その一つを任せられたんだから、康重は、家康から非常に信頼されていたことがよく分かります。  

*天下普請の城の設計の多くに、藤堂高虎がかかわっています。この人、一応外様大名なんですが、家康にめっちゃ信頼されてるんですね。怖いくらいに。

天下普請(てんかぶしん)とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。なかでも城郭普請が有名であるが、道路整備や河川工事などインフラストラクチャー整備などの工事も含んでいる。
天下普請によって築かれた城郭 江戸城(武蔵国・東京都) 名古屋城(尾張国・愛知県)大坂城(摂津国・大阪府)高田城(越後国・新潟県)駿府城(駿河国・静岡県)伊賀上野城(伊賀国・三重県)加納城(美濃国・岐阜県)福井城(越前国・福井県)彦根城(近江国・滋賀県)膳所城(近江国・滋賀県)二条城(山城国・京都府)丹波亀山城(丹波国・京都府)篠山城(丹波国・兵庫県)

wiki

 ここで名を挙げた徳川方の対豊臣最前線辺境伯たち・・・松平康重、井伊直政、松平忠吉は、家康から厚く信頼されていただけでなく、相互に婚姻による血縁関係が結ばれていました。その方がお互いスムーズに情報連携や協力ができますしね。 これも徳川家の戦略なのか、見事なものです。

 松井忠次は、松平家忠(東条松平家)の伯父であり、後見人。家忠は若くして亡くなり、徳川家康の4男忠吉が養子として東条松平氏を継ぎます。 忠次の息子が松平康重。忠次の娘は徳川家康の養女として井伊直政に嫁ぎ、その娘が松平忠吉と結婚しています。

 

西尾市岩瀬文庫で開催中の企画展「古城」を見てきました。

3月5日まで開催中の、息の長い企画展です。入場無料。

本展示では江戸時代の書物に登場する様々な古城・城跡を紹介します。

古城―失われた城の記録―

古城について記載のある古文書の展示はともかく、城絵図は見てて楽しいです。少し紹介しますね。

①遠州諏訪原城

大井川を見下ろす牧之原台地端部に位置し、天正元年(1573)に武田勝頼が築城。天正3年に徳川家康が攻め落とすと、武田氏との緩衝地帯であるこの城を死守すべく松井忠次らを城代に任命した。武田氏滅亡後に城は不要となり、天正18年ごろには廃止となった。なお、当文庫(岩瀬文庫)では2種類の「遠州諏訪原城図」を所蔵している。

古城 展示図録より

で、展示された2種類の諏訪原城の絵図がこちら。出典は「遠江古蹟図絵」のようです。

 ちなみにこの城を例に挙げたのは、僕が持っている 香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」にこの城の復元鳥瞰図が載っており、比較できるから。それがこちら。

香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」

さすが鳥観図は、城の構造がよくわかりす(笑)。もしかして、右側の絵図はこのイラストを描く際の基礎資料になったのかもしれませんね。

現在も城跡は残っており、中でもイラストの中央左側に見えている丸馬出と堀が良好な状態で残っているそうです。

島田市博物館HP

いや~。ここまで絵図とか復元図、航空写真を見ちゃうと、現地行きたくなりますね~。

ちなみに、徳川時代にこの城の城代となった松井忠次くんですが、諏訪原城守備の功績抜群として家康から松平姓を与えられ、譜代大名・松井松平氏の祖となります。

松井忠次は遠州諏訪原城(諏訪之原城、牧野城)攻落やその後の守備に功績甚大と評され、家康よりその偏諱と松平の名乗りを与えられて松平康親と改称した(ただし、康親への改名は後世の誤認の可能性を指摘する説もある)。

この系統は転封を繰り返して、最後は第12代藩主・康英の時に武蔵川越藩(8万4千石)にて明治維新を迎えた。なお、代々周防守の官名を世襲し、松平周防守を名乗った。

wiki

実はこの人西尾市吉良町の出身で、お墓も吉良町の花岳寺にあるのです。以前記事で取り上げ、地元出身の歴史上の人物(超マイナーですが)として親しみを感じていたところです。諏訪原城、攻城せねば!

東条城跡に立つ、旧法応寺の解説看板

②春日山城

言わずと知れた、上杉謙信・景勝の居城(山城)。

この絵図は、景勝時代の主要な武将の屋敷の配置を記している そうです。

春日山古城之図

白い部分が、武将の屋敷などを示しています。実際に文字が読めて「直江山城」とか「馬屋」「蔵屋敷」とか書いてあります。直江山城・・・上杉の武将には詳しくないのですが、さすがにこれはわかります。直江(山城守)兼続の屋敷ですね!   

頂上付近の赤色着色部分は・・・ ゴザ所、ヤシキ二段目、景勝、諏訪堂、毘沙門堂・・・。 謙信や景勝など、城主(領主)の居住区を示しているものと思われます。中央部の赤色部分は「馬場」とあります。城主もここで乗馬していたので、赤地なのかと。

実子のいなかった謙信には二人の養子がいました。 甥の景勝と、北条氏からの養子である「三郎」景虎です。景虎は謙信の血を継いではいませんが、北条氏康の七男で、実家という強力な後ろ盾を持っています。しかも謙信の初名である「景虎」を名乗っています。謙信はどちらを跡継ぎとするか決めていなかったともいわれており、実際謙信の死後、二人の間で「御館の乱」という跡目相続争いが勃発するのです。

面白いと思ったのは、二人の屋敷の位置。ゴザ所、ヤシキ二段目(御座所・屋敷二段目→謙信在命時はここらに居住していたと思われる)の直下に「三郎屋敷」があり、「景勝」屋敷より御座所に近いです。一方で、景勝屋敷はやや距離があれど、屋敷二段目と同じ高さですから「三郎屋敷」より一段高い位置。

御座所からの距離と高さ。謙信が養子二人の力バランスを取っていたのかなあ?そのビミョーな関係が垣間見えるようじゃありません?うがちすぎ?

ほかにも、武田氏館跡(つつじがさき館)の絵図、桶狭間合戦図(いうても、合戦図ではなく今川方の大高、鳴海両城と織田方の鷲津、丸根、正光寺各砦の位置が描かれたもの)等等があり、楽しめます。 

地元では、寺津城の絵図が3枚ほど出ていました・・・(けど、当時でも堀と土塁の位置しかわからなかったのね)

マニアックですが、興味ある人には楽しめる展示だと思います。よろしければ、どーぞ。