お茶以外の、牧之原台地探訪 

義務教育を終えた良い子の皆さんは、「牧之原台地」というと何を思い浮かべるでしょうか?「お茶!」そうですね。 それ以外は? 「・・・」

牧之原台地ーお茶 と反射的に出るよう教育され、それ以外出てこないですよね(笑)。僕もそうでした。が、正月にあのあたりにふらふら出かけ、興味があるところを探索して帰ってみると、行ったところがみんな「牧之原台地」に関係してんだなあ と思い、このようなタイトルにしてみました。

さて、地学的にみた牧之原台地とは・・・

一言で言えば、東を大井川、西を菊川に挟まれた台地です。手のひらを下流に向け広げたようになっていて、その最先端が御前崎。(そうか、御前崎は牧之原台地の一部なのか。 台風の来襲を告げるニュースで、よく御前崎の名前は出てきます。)

 wikiより

成り立ちは古大井川の扇状地が隆起してできた洪積台地。となると主成分は堆積した砂礫なので透水性が高い。また、台地から平地へ移行する部分は浸食作用により切り立った地形が多く見られるそうです。参考→菊川水系の地形・地質 静岡県

これをキーにして、行ったところを紹介。

旧東海道金谷坂石畳

牧之原台地を東西に横切るように、旧東海道が通っています。大井川沿いの平地から、金谷坂で台地に上るのですが、そこは交通の便を図るため石畳だったそう。近代になると石は剥がされ舗装されますが、平成3年に石畳に戻され、観光名所?になっています。

急坂の上、まるで川原石のような丸石がコンクリートで固められ、雨の日は滑って危なそうです。歩くと「なんでよりにもよって河原の丸石使うんだ!歩きにくいじゃねーか!」と思ってしまいます。が、実はさにあらず。ちゃんと地元産の山石を使ったのだけれど、先ほどの地質条件から、丸石しか産出しない ということのよう。なら、しゃーない?

江戸時代末期、約400間(約720m)の石畳が「山石」を敷き詰めて造成されました。
この時使われた山石は、牧之原台地の耕作土の下に厚く堆積している「牧之原礫層」に含まれている大井川の河原石と同じ丸石で、現在の大井川の河原石よりもザラついて滑りにくいものです。明治以降、電話線や電線等の敷設により掘り起こされ、その後舗装されたため、もとの面影は失われていました。

平成3年(1991年)、町おこし事業として「平成の道普請(みちぶしん)・町民一人一石運動」により、約7万1000個の「山石」を敷いた、430mの石畳が復元されました。

島田市観光協会

ちなみに、浮世絵師・安藤広重の「東海道五十三次」にある「小夜の中山」

金谷と次の宿「日坂」の間にある牧之原台地を越える峠なのですが、東海道の難所の一つだったそうです。デフォルメすごすぎ。

②諏訪原城跡

牧之原台地の端っこに造られた城です。平地から見れば山城です。「台地から平地へ移行する部分は浸食作用により切り立った地形」となっているため、山城部分の防御は完璧。

諏訪原城跡は、牧之原台地の北端部に近い標高212mから220mの台地に立地する山城です。本曲輪(ほんくるわ)東側の斜面は断崖絶壁となっており、当時の大井川は牧之原台地に沿って流れていたことから自然地形によって守られた「後ろ堅固の城(うしろけんごのしろ)」となっており・・・、

島田市博物館

ただし、台地側から見るとただの平城なので、堀を掘ったり、土塁を築いたり人工的に防御を固める必要があります。 この城ではそこに「馬出し」という工夫がしてあり、その遺構がしっかり残っているのが特徴。詳しくは上記、島田市博物館のHPか、昔の記事を見てくれい。

*追記 後日、萩原さちこ「地形と立地から読み解く戦国の城」という面白い本を手に入れまして、そこでの諏訪原城の記述を一部紹介すると・・・

駐車場と登城口はすでに台地上にあるから、城内を歩いていても傾斜はほとんどなく、平城を歩いているように思える。・・・しかし城の周囲を注意深く見渡してみると、起伏の激しい地形とわかるだろう。たとえば本曲輪の東端に立って曲輪直下を覗き込んでみると、急にガクンと下がり断崖になっている。本曲輪は、西側を除く三方が断崖地形になっているのだ。

・・・本曲輪の西側には台地の平坦部が広がるためほとんど高低差がなく、それをカバーするためにかなり大規模な土木工事を施し牧之原台地からの侵入に備えているのが大きな特徴だ。

牧之原台地に築かれた諏訪原城 の項より

やっぱり「地形から読み解く」と、同じような見方になるのですねえ。僕もそれほどおかしい見方してなくて良かったです(笑)。

ただまあ、現地に行って分かったんだけど、この城の水源ー井戸ーは本曲輪(本丸)と二の曲輪(二の丸)の間の堀の中にあるのです。一応「水の手曲輪」という名前になってはいるけれど、本曲輪や二の曲輪と比較すれば防御は手薄。

この井戸取られたら、いくら堅固な曲輪に立てこもっても、水攻めで負けるやん・・・。当然築城者は曲輪内で井戸を掘ってみたんでしょうけど、台地の透水性の良さと掘りにくさ(玉石交じり)に泣かされ、結局出なかったんでしょうねえ。たぶん自然の谷筋であっただろう堀の中に、井戸を掘るしかなかった というところか・・・

この点、近くの丘陵(小笠原丘陵)にある高天神城は同じ山城ながら曲輪内に井戸があり、長期戦に耐えられる(そして実際耐えてた)ので、より堅城と言えるかもしれません。 

③静岡空港

昔、静岡県に住んでたから、静岡に空港があることは知っていましたよ。(いらんと思うけど)そしてその愛称が「富士山静岡空港」ってことも聞いていてたから、なんとなーく県の東部にあるのかな って思っていました。 牧之原台地にあるんか・・・

地方空港が過剰となっている問題のため、日本国政府が離島以外の地方空港新設をしない方針を打ち出していることから、マスメディアから「最後の地方空港」と呼ばれている。
 開港当初は、年138万人の需要を見込んでいたが、就航便の伸び悩みから2010年(平成22年)には、2017年度に70万人の目標へ下方修正した。
 富士山静岡空港という愛称がつけられているが、ターミナルビルから富士山山頂までは直線距離で約80キロメートル離れている。なお、羽田空港(第3ターミナル)から富士山山頂までは直線距離で約96キロメートルである。

wiki

え、なんで牧之原台地にあるのかって?

たぶんね、静岡県のだいたい真ん中らへんにあるってことが大きいんちゃない?あと地学的に考えると、牧之原台地は洪積台地だから比較的平坦かつ地盤特性が良好で建設に優位な上、土地利用形態も茶畑が大半で人家が少ないから、騒音対策や用地買収に優位ってことじゃないかな。

ダイヤですけど、日中は発着が一時間に一本くらいあるようで、辺鄙な地方都市の駅ダイヤレベル。・・・飛行機だともっと需要ないと苦しいだろ。

静岡県は、静岡空港の運営収支は2018年度まで10年連続で赤字だったと算出している。従前実施してきた県一般会計からの補填は、民営化した2019年度以降は一部を除き行わない。一方で、2018年度だけで370億円の経済効果があったと推定している。

同上(wiki)

「県一般会計からの補填は一部を除き行わない」って、霞が関文学的には「いろんな方法で補填できる」って読むんじゃないかと思いますが・・・まあ県としては頭が痛いとこだろうね。

ちなみにこの空港の地下には東海道新幹線が走っておりまして、国策にかたくなに反対する某県知事の真の意図は「ここに新幹線の駅造ればリニアトンネル着工認めたる。それでインバウンド需要で空港黒字化!」狙いかもしれません。知らんけど。

JR東海が進めるリニア中央新幹線について、静岡県の着工拒否が開業予定に大きな影響を与えている。ジャーナリストの小林一哉さんは「東海道新幹線の真上に位置する静岡空港に新駅を設置する議論を糸口にするしかない。静岡県への『地域振興』も尊重しなければリニア問題は解決に向かわない」という――。

「リニアを通したいなら”静岡空港新駅”を認めろ」川勝知事が妨害解消と引き換えに求める「地域振興」の中身  PRESIDENT 2023/06/16 7:00

あと実際行ってみると、下の記事が楽しく読めるよ。「さすが、うまく書いてある」って(笑)。

【2024最新】駐車場も無料!富士山静岡空港の楽しみ方6選「国内・国際線に乗らなくてもOK」

④蓬莱橋

牧之原台地と対岸の島田市の間を流れる大井川にかかる木橋。平成9年に「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネスに認定されたそうな。

橋脚は鉄筋コンクリート製の長い(高い)もので、人が渡る桁部分(木造)は堤防より高い位置にあります。脚同士の間隔も長く、これなら現代の基準でも、川の流れの阻害物とはなりません。見た目と異なり、河川工作物設置基準に合致した、意外と現代的な橋。蛇足ですが(笑)。

渡る部分の木材はかなり痛んでおり、あちこち穴が空いていました。もうすぐにでも修理が必要でしょう。通行料100円を取っているとはいえ、管理は市ではなく「蓬莱橋土地改良区」ですから、なかなか大変でしょうけど。

いま工事してまーす。

通行止めのお知らせ(令和5年12月28日更新)
 蓬莱橋の木製上部工の架け替え工事に伴い、令和6年2月13日(火)から令和6年2月29日(木)まで通行止めにします。

島田市

江戸時代、この大井川は橋を架けることも、船で渡ることも禁じられていました。んで、両岸(島田宿と金谷宿)に川越人足が大勢いて、旅人は彼らに担いでもらって川を越すしかありませんでした。確か、自分で渡るのは禁止だったと思います。むろんタダじゃありません。大名行列とかすげー金かかるし、仰せとはいえ悪政ですよ。 舟くらい許可しろってんだ。てか、江戸時代ずっと禁制だったことの方がすごい。

それが明治時代になって撤回されました。これは確実に御維新の成果でしょう!

まあそれは良かったんだけど、川越人足が失業しちゃいました。それと、明治維新で徳川幕府は崩壊したんだけど徳川家は残り、徳川宗家16代徳川家達は静岡藩70万石の藩主に任じられ、幕臣有志(?)は主君について移住してきました。しかしすぐに藩籍奉還で失業しちゃいます。

明治政府はこれら失業者を、旧藩内の荒れ地開墾に従事させることにします(藩主は東京で公爵におなり遊ばされた)。台地で水が乏しいため放置されていた牧之原台地がそれ。まあ原野で、ふもとの草刈り場だったそうな。

茶の生産も一筋縄ではいかず、苦労の末、開拓の主体は当初の武士や川越人足から地元農家に変わり、最終的には有名生産地になったんだけど(★)、その過程でどうしても大井川を渡る頻度が多くなり、そのため架けられたのが蓬莱橋。まあ、最初はこんな立派な橋じゃないです。最初は流されること覚悟で板を敷いたり、低い橋を架けたり。文字通り渡るのも怖い木橋だったわけだ。

参考→牧之原農業水利事業

★お茶は水はけのよい土地を好むので、その条件に限って言えば、牧之原はお茶の生産に適していたといえるでしょう。が、水の供給に乏しいのは、お茶の生産には適しません。少なくとも今の製法だとお茶は何度も消毒を行う(=大量に水を撒く)ので。水の乏しい牧之原台地で、どうやってお茶の防除を実施していたんだろ?

⑤御前崎

やってきました、牧之原台地の最先端。

なんでこんなところにでかい丘があるんだ って思っちゃいますが、牧之原台地の先端だから と言われれば、なるほどなあ って。

しかしこの光景、「北海道の〇〇岬です」とか「イギリスの××岬です」とか言われても、信じられそうです。静岡の最南端にこんな地形があるとは、知らなかったな。

御前崎灯台の東南東3kmほどのところに御前岩と呼ばれる岩礁があるそうで、牧之原台地の先は海中に入りながらも、まだ先に続いているのかもしれませんね。

御前埼灯台の東南東3kmほどの海中に御前岩と呼ばれる暗礁がある。この海域では1953年から1957年までの間に17隻の海難事故が発生する危険な海域であった。この海域に船舶が近寄らないようにするため、1958年に御前岩灯標(2013年10月より御前岩灯台)が設置された。

wiki

紹介は以上です。

あと先ほど気が付いたんですが、付近に油田があったそうで、なんか地質的に台地と関係があったのかな?(大昔海底だったのが隆起したとか) また機会があれば見に行きたいところです。

西尾市岩瀬文庫で開催中の企画展「古城」を見てきました。

3月5日まで開催中の、息の長い企画展です。入場無料。

本展示では江戸時代の書物に登場する様々な古城・城跡を紹介します。

古城―失われた城の記録―

古城について記載のある古文書の展示はともかく、城絵図は見てて楽しいです。少し紹介しますね。

①遠州諏訪原城

大井川を見下ろす牧之原台地端部に位置し、天正元年(1573)に武田勝頼が築城。天正3年に徳川家康が攻め落とすと、武田氏との緩衝地帯であるこの城を死守すべく松井忠次らを城代に任命した。武田氏滅亡後に城は不要となり、天正18年ごろには廃止となった。なお、当文庫(岩瀬文庫)では2種類の「遠州諏訪原城図」を所蔵している。

古城 展示図録より

で、展示された2種類の諏訪原城の絵図がこちら。出典は「遠江古蹟図絵」のようです。

 ちなみにこの城を例に挙げたのは、僕が持っている 香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」にこの城の復元鳥瞰図が載っており、比較できるから。それがこちら。

香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」

さすが鳥観図は、城の構造がよくわかりす(笑)。もしかして、右側の絵図はこのイラストを描く際の基礎資料になったのかもしれませんね。

現在も城跡は残っており、中でもイラストの中央左側に見えている丸馬出と堀が良好な状態で残っているそうです。

島田市博物館HP

いや~。ここまで絵図とか復元図、航空写真を見ちゃうと、現地行きたくなりますね~。

ちなみに、徳川時代にこの城の城代となった松井忠次くんですが、諏訪原城守備の功績抜群として家康から松平姓を与えられ、譜代大名・松井松平氏の祖となります。

松井忠次は遠州諏訪原城(諏訪之原城、牧野城)攻落やその後の守備に功績甚大と評され、家康よりその偏諱と松平の名乗りを与えられて松平康親と改称した(ただし、康親への改名は後世の誤認の可能性を指摘する説もある)。

この系統は転封を繰り返して、最後は第12代藩主・康英の時に武蔵川越藩(8万4千石)にて明治維新を迎えた。なお、代々周防守の官名を世襲し、松平周防守を名乗った。

wiki

実はこの人西尾市吉良町の出身で、お墓も吉良町の花岳寺にあるのです。以前記事で取り上げ、地元出身の歴史上の人物(超マイナーですが)として親しみを感じていたところです。諏訪原城、攻城せねば!

東条城跡に立つ、旧法応寺の解説看板

②春日山城

言わずと知れた、上杉謙信・景勝の居城(山城)。

この絵図は、景勝時代の主要な武将の屋敷の配置を記している そうです。

春日山古城之図

白い部分が、武将の屋敷などを示しています。実際に文字が読めて「直江山城」とか「馬屋」「蔵屋敷」とか書いてあります。直江山城・・・上杉の武将には詳しくないのですが、さすがにこれはわかります。直江(山城守)兼続の屋敷ですね!   

頂上付近の赤色着色部分は・・・ ゴザ所、ヤシキ二段目、景勝、諏訪堂、毘沙門堂・・・。 謙信や景勝など、城主(領主)の居住区を示しているものと思われます。中央部の赤色部分は「馬場」とあります。城主もここで乗馬していたので、赤地なのかと。

実子のいなかった謙信には二人の養子がいました。 甥の景勝と、北条氏からの養子である「三郎」景虎です。景虎は謙信の血を継いではいませんが、北条氏康の七男で、実家という強力な後ろ盾を持っています。しかも謙信の初名である「景虎」を名乗っています。謙信はどちらを跡継ぎとするか決めていなかったともいわれており、実際謙信の死後、二人の間で「御館の乱」という跡目相続争いが勃発するのです。

面白いと思ったのは、二人の屋敷の位置。ゴザ所、ヤシキ二段目(御座所・屋敷二段目→謙信在命時はここらに居住していたと思われる)の直下に「三郎屋敷」があり、「景勝」屋敷より御座所に近いです。一方で、景勝屋敷はやや距離があれど、屋敷二段目と同じ高さですから「三郎屋敷」より一段高い位置。

御座所からの距離と高さ。謙信が養子二人の力バランスを取っていたのかなあ?そのビミョーな関係が垣間見えるようじゃありません?うがちすぎ?

ほかにも、武田氏館跡(つつじがさき館)の絵図、桶狭間合戦図(いうても、合戦図ではなく今川方の大高、鳴海両城と織田方の鷲津、丸根、正光寺各砦の位置が描かれたもの)等等があり、楽しめます。 

地元では、寺津城の絵図が3枚ほど出ていました・・・(けど、当時でも堀と土塁の位置しかわからなかったのね)

マニアックですが、興味ある人には楽しめる展示だと思います。よろしければ、どーぞ。