西尾中学校の校庭前に、今川氏発祥の地の碑があります。今川氏は、「桶狭間の合戦」「今川義元」で有名な戦国大名ですが、もともと吉良氏の分家みたいな存在で、この地から発展したんですね。


この辺りは「今川町」と言われ、今川氏発祥の地(今川荘)とされています。元々は吉良氏の祖である吉良(足利)長氏の隠居領として与えられた土地を、次男に与えたのが始まりとか。 ま、長氏の隠居所は、現西野町小学校の西「丸山」の地にある丸山御所じゃないの?という突っ込みもあるんですけど。
この今川氏発祥の地は、この石碑と中央にお墓があるだけで、寂しいものです。墓は今川了俊のものとされていますが、了俊とは誰でしょう?
駿河守護になった今川範氏の弟で、南北朝の時代に北朝(室町幕府)の九州探題として九州に赴任。永らく南朝の根拠地だった九州を幕府勢力として統一したのだけれど、独自の勢力や朝鮮との独自外交ルートを持つ危険性、讒言などから、統一の直後解任され、遠州半分の守護に左遷されました。 歌人としても有名でした。
しかし、そんな有名人の墓が、お寺でもないこんなところに、ポツンとあるんでしょうね?正確には後世に造られた供養塔のようです。
静岡県袋井市(遠州)にある海蔵寺は、了俊が開基したと伝えられていますが、この寺にも了俊の墓があります。こちらにあるのはむしろ自然なのですが、その墓も供養塔のようで、後の時代(1749年)の建立だとか。
wikiに項目が開設されている有名人なのに、正確な墓の位置がわからない。不自然と言えば不自然ですねぇ。 南北朝時代の北朝の武将、しかも将軍家から反逆を疑われた となると、お墓もないものですかねぇ?

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市内には、もう一つ今川氏ゆかりと伝わるものがあります。 駒場町の東向寺に、今川義元の首塚 なるものが伝えられているのです。(塚は文化財指定されていません)

このお寺には、平安時代後期と伝えられる 観音菩薩立像(市指定文化財)もあります。
さて、寺院内に塚の案内看板はありません。どこかな・・・本堂の仏さまに「拝見させてもらいますね〜」とお声がけ(お参り)して、捜索しましょ。まあ、山側に祭るのが自然だわね。
はい。本堂向かって右手の山側にこのような階段があります。それを登っていくとありました。


桶狭間の戦いで、大将今川義元の首はちょん切られ、首は織田軍に持ち去られました。残った胴体は今川の家臣が回収し豊川市にある大聖寺に葬りました(胴塚)。首は戦国のならいとして信長の見分後街道に晒されました。
それを今川方の武将・鳴海城主岡部元信が、城の開城と引き換えに首の返却を受け、駿河へ持ち帰り埋葬したと言われています(墓所は静岡市葵区の臨済寺)
が、お寺にある説明によると、このお寺の四世住職の得順上人が今川義元の伯父に当たる縁で、駿河へ帰る途上に当たるこのお寺に、義元の首(首塚)と戦死者を祀ったそうです。
胴体も傷みが激しく豊川市で葬ったぐらいですから、晒された首も相当傷んでいたでしょう。そこで道中の途中で葬ったという説も、もっともだなあと思います。 戦国時代は、有力大名と言えど生きるのも大変ですし、死んでからもいろいろ大変ですね。 なかなか一回の合戦で大将の首が取られて総崩れ という合戦はないでしょうけど。
(10月28日補足、東向寺分を加筆)

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。
「西尾の文化財(11)今川氏発祥の地+伝・義元首塚」への1件のフィードバック