先日機会を得て、佐久島に行ってきました。 標題の神社とお寺は文化財ですので、いつかは訪れるつもりでしたが、「渡船してまで、なかなかね」と灯台元暗し状態でした。船だから思いついて原付バイクで走ってく わけにもいきませんし。
ところが、つい数日前図書館で吉良町史を読んでたら以下のような興味深い記述を発見。
なお、幡頭神社から正面に見える羽豆神社を見通すと、その延長線上に伊勢の山並みが見られるが、それを地図で確認すると外宮に至ることがわかる。この三社が一直線上に並ぶことに、特別の意味があるのだろうか。
宮崎にある幡頭神社、佐久島の八剣神社、師崎の羽豆神社は、みな尾張氏の祖である「建稲種命(たけいなだねのみこと)」を祭っています。
伊勢神宮は熱田神宮ともつながるけど、伊勢と三河(吉良・幡豆)とのつながり、なんと面白そうなテーマ。
おおー。八剣神社に行きたくなって来た!。
都合よく「朋、遠方より来るあり、亦た楽しからずや」それでなんと「翌日は佐久島へ行きたい」と述べたもう。これって「鴨が葱を背負ってくる」例文かな? いや違います。正しくは「渡りに船」あるいは「求めよさらば与えられん」の好例かと。
翌朝、天気曇天ニシテ波穏ヤカナリ
ということで島に渡り、西港から寺のある東港を目指します。 島の人口は260人程度。1950年に佐久島村が一色町に合併した際は1600人ほどいたそうで、過疎の島ですね。そこで最近アートの島として売り出し、この日も若い人を中心にそれなりの散策の人もいたんだが・・・
アート・・・ねぇ・・・まあ一言だけ言っておこう。設置したらちゃんとメンテナンスしなさい!塗装が剥げてると台無しだから!
※追記。西尾市報(2018.3.1)によれば、同年2月4日の「黒壁運動」でボランティア140名の手できれいに黒く塗り替えられた街並みやアートが息を吹き返したそうです。行くならきれいなうちがチャンスだ!!
あとは魅力的な飲食店が欲しいところですが、正直島の人口と観光客数から考えると、なかなか厳しいなあ・・・。島の魅力はあり、悪くないとおもいますが、今一つってのが正直なところ。
島の構造はなかなか興味深いです。
それほど大きな島ではないけど集落と港は完全に西と東に分かれ、中央部に何もありません。正確には近代になって何もない中央部に東西を結ぶメインロードが通り、両方から来るのに便利だから小中学校、JA駐在所、中電、診療所ができたという感じです。したがって中央に住宅はほとんどありません。まあ中央部は地形的に港が造りにくかったのかもしれないですけど。wikiによれば
東集落には筒井姓が、西集落には高橋・藤井姓が多く、戦前までは集落間の通婚は皆無に等しかったとされる。
江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末時点でも瓦屋根を持つ民家がほとんどだったという 佐久島
ふーん。 ともあれ、お目当ての寺と寺院は東側にあります。
八劔神社(神明社と同居)
残念ながら、文化財の本殿は格子の中で様子はわかりません。年一回のお祭りの時には拝見できるようですが。近くに阿弥陀寺もありました。
一応覗けましたが、遠いなあ・・・桃山時代の観音菩薩像だそうです。
西集落に崇運寺、東集落に阿弥陀寺と正念寺と3寺あるのですが、200人規模の島民で、正直これだけの規模のお寺の維持は困難でしょうね・・・
と、途中書きかけていた、伊勢(ヤマトタケル関係)と三河(幡豆)とのつながりだけど、古代の尾張氏つながりだけでなく、
- 吉良の饗庭御厨(あいばみくりや)は伊勢神宮領だったこと。
- 吉良持広は松平広忠が松平一族の紛争で岡崎城を追放されるとこれを保護し、所領のあった伊勢国に招き入れたと伝わること。
- 佐久島は吉田(豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。陸路4日が海路では最短半日で遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。
等の点からも、かなり強固なものだったのではないかと。まあ今の我々が考える交通機関は自動車、トラックや鉄道が主でしたが、明治時代くらいまでは舟運が第一ですからね。
伊勢と三河とのつながりに関しては、ブログ「神社の世紀」さんが「ハズ世界」という概念を打ち出されていて、興味深いです。
※西尾市の辺りは歴史的には「吉良荘」でしたので、吉良町史は西尾市史でもあります。さらに、たいていの市史が辞書風なのに吉良町史は読み物で読んでて面白い。町史の記事をミステリー風に終わらせていいんす?と思う一方、それはそれでお茶目で大変よろしい。 まず読まれてナンボだしね。(そういう意味では、愛知県史は最悪。)