延喜式神名帳 (式内社)
平安時代中期に、「延喜式(えんぎしき)」という格式が編纂されました。
古代日本は「律令制」に基づく法治国家で、律(刑法)と令(行政法・民法)を格(改正・追加)式(施行細則)の法律体系でした。
延喜式というのは日本の三代格式の一つで、905年(延喜5年)醍醐天皇の命により藤原時平が編纂を始めたものです。その式の巻9・10に「神名帳 (通称:延喜式神名帳)」があります。
行政の施行細則である「式」になぜ神社の名前を載せる必要のか?それは、ここに名前が載せられた神社に国庫から祭祀料を出すという、行政手続きに必要だからです。
延喜式以前の「式」にもそのような神社名簿があったのかもしれませんが、三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけなので、延喜式神名帳に記載された神社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で「式内社」と呼びます。
ただし、式内社の中でも、国から直接祭祀料をもらう「官幣社」と県知事からもらう「国幣社」がありました。正確に言うと、神祇官※という官庁から幣帛を受けるか、国司から幣帛を受けるかの違いです。
この「式内社」とか「官幣社」はよく聞く神社の社格です。
西尾を包括する幡豆郡の「式内社」は以下の二座です。全国版は、こちらで確認できます。
- 久麻久神社二座(八ツ面町&熊味町)
- 羽豆神社 (幡頭神社)
三河国内神明名帳
中央政府の神名帳が延喜式神名帳なわけですが、それぞれの地方(分国)でもそのミニチュア版が造られました。三河の国の場合は「三河国内神明名帳」です。西尾市史によると、写本の猿投神社所蔵の国内(三河国)神名帳が「続群書類従」に収録され、一般に知られるようになったそうです。
記載された幡豆郡八座は以下の通りです。
正二位羽利大明神・・・幡頭神社 (延喜式神名帳では羽豆神社として記載)
正三位内母大明神・・・伊文神社
従四位下熊来明神・・・久麻久神社
従四位下斎宮明神・・・野宮神社
従四位下津牧明神・・・志葉都神社
従五位下磯泊天神・・・磯泊天神
従五位下蘇美天神・・・蘇美天神社
従五位下草佐天神・・・鳥羽神明社
各神社の訪問記にリンクを貼っておきます。
※神祇官
養老令における職員名簿(令)では太政官に先んじて筆頭に記載されています。が、その長官(神祇伯)の位は従四位下相当。一方、太政官の長官(常置)たる左大臣は正二位か従二位相当ですから、実態としては太政官よりずっと下位にありました。
にもかかわらず、神祇伯を世襲することになる白川家は、皇室の祭祀を司っていた伯家神道の家元でもあることから「王」を名乗ることが許され、「白川伯王家」と呼ばれました。 (白川家は「花山源氏」ですから初代が皇族から臣籍に下っており、皇族ではないので、通常は「王」と名乗れません。ましてや代が変わり血縁も遠くなっても世襲で名乗りを許される特殊な例です)
明治維新後、さすがに世襲はなくなり、明治2年に神祇官は太政官(行政府)から独立して、行政機関の「筆頭」に置かれたものの、さすがにうまく行かないので格下げされ、最終的には行政府の中に神祇院がある形に。さらに神祇院は昭和21年に廃止され、全国の神社の管轄は宗教法人神社本庁に引き継がれ、現代に至っています。
更に蛇足。令外官
令は行政法なので、どういう官職を置くか(官職名簿)みたいなものも規定されています。が、世の中が複雑になったり、物騒になると、令に記載のない官職を造る必要が出てきます。これらの官職を「令外官」と言います。その後の歴史で重要になる役職は、大抵この令外官です。著名なものをあげると・・・
- 蔵人・天皇の秘書官
- 検非違使・京都の治安維持や民政を行わせる
- 関白・天皇を補佐する
- 摂政・天皇の権限を代行する
- 内覧・天皇が決裁する文書を事前に閲覧できる
- 征夷大将軍・蝦夷征討事業を指揮する将軍。 出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだ。また非常時には陸奥・出羽の行政及び軍事の専権を持つ
藤原氏や源氏は、こういった令外官の事例をうまく使って、摂関政治や武家政権制度の正当性を図っていったんですね。
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