鎌倉時代のものと伝わる薬師如来座像が、市の文化財なんですけど、秘仏で見られません。 以上。
で終わりとはいきませんね(笑)。
このお寺は浄土真宗ですから、当然「阿弥陀如来」が本尊でございます。ですが、寺伝ではその昔「天台宗東大院薬師寺」と言ったそうで、そのころの本尊と伝えられるものが、この薬師如来だそうです。市内では最古の仏像の一つとも。(西尾市史)
薬師如来については、以下のような話も伝わってます。
この如来像は、行基の作で、聖武天皇の勅願で建立された霊場でした。
時移って戦国の頃、織田信長が三河諸寺を焼き払ったとき、その家臣である高山右近に薬師寺も焼かれちゃいました。
時の住職は本尊の薬師如来を畑に埋め、伊勢に逃げて身を隠していたそうな。
ある夜、「古里へ帰れ」と夢にお告げがあり、帰ろうと船に乗ったところ、なんと本能寺の変で伊勢から三河へ帰る徳川家康と同船だったそうな。んで、三河の港に着いた時、北に光る場所があったんだと。
不審に思った家康は、住職に「調べろ」と命令。住職が調べたところ、それは自分が埋めた薬師如来を埋めた畑だったげな。 家康は「これは幸先がよい!」と大いに満足し、お堂を建てたんだそうな。
その後、矢作古川の洪水で寺の辺りが池になり、白蓮が美しく咲きだしたことがあったので、寺の名前を紫雲山東大院から宝池山蓮光寺 と改めたとさ。
ふーん。
由来に家康も出てくる由緒ある天台宗の寺が、浄土真宗のお寺になったのはなぜ とか、この時の家康にそんな暇ねーよ とか、キリシタンだった高山右近が、領地の寺院を壊したのは事実だけど、あの人摂津(大阪)を治めた人だし、信長に使えたのは彼が京都を支配してからです。その人が三河の寺をわざわざ焼きにくるかな とか
いろいろ突っ込みどころもありますが・・・
当時吉良荘と言われていたこの辺りには複数の荘園があったようで、今川荘(今川氏発祥の地)、一色荘(一色氏発祥の地)、饗庭御厨、蘇見御厨(御厨は伊勢神宮領)と並んで、「鎌谷荘」もあったようで、歴史のある大きな寺があったとしても不思議はありません。
歴史を紐解いてみると、正平5年(1350)の南北朝時代に、後村上天皇が和田助氏を「参州釜谷荘内兼清名地頭職」に任命しています。
現在お寺の周りは、航空写真を見ていただければわかるとおり、「寺の辺りが池になり、白蓮が美しく咲きだした」という状況には程遠いのですが
釜谷もしくは鎌谷という地名と言い、周りの「十郎島」や「鵜ヶ池」「藤太池」あるいは「横須賀」と言った地名の「谷」「池」「島」「須賀」から低湿地であることが読み取れます。(須賀とは、浜辺・干潟というような意味。)
写真の右端に「矢作古川」がありますが、当時は、もう一本「弓取川(矢作川旧河道)」が流れており、鎌谷の辺りは両川に挟まれていたようです。
まあ、今のようにしっかりとした堤防により河道が定まっていない頃ですから、洪水時に「寺の辺りが池になり、白蓮が美しく咲きだした」(しばらく水が引かなかった)というのも頷けます。工学の目から見れば、「低湿地で軟弱地盤だから、家を建てる際は要注意!」ということでもあります。