既出。とりまとめ記事です。
西尾市の文化財 万燈山で行われる「鍵万灯」 について、西尾市のHPでは次のように記載されています。
市の東端、標高160余メートルの万灯山西斜面で毎年盆の8月14日に行なわれる火祭り。柴の山「ツボラ(スズミ)」を並べて点灯し、遠方から見ると火線が「かぎ形」に見えることから「かぎ万灯」と呼ばれる。午後8時半から9時頃に点灯し、20から30分ほどで終了する(天候によって異なる)。
その由来や始まった時期については明らかではないが、寛永7年(1630)に創建した長圓寺が山号を「万燈山」と称したことから、この頃には既に行われていたことが分かる。最も古い史料は、長圓寺創建から間もない頃に編まれたと思われる『万燈山長圓寺記』で、「山頂に戦国時代に戦で亡くなった人を埋葬した古塚があり、これを祀るために里民が七月の中元に万灯を焚く」としている。
また一方、明和6年(1769)『友うづら夢物がたり』では、「応徳・寛治の頃(1084から94)に周辺の真言宗と天台宗の寺々(「浅井千坊」「須美千坊」)が宗論から争い、多くの死者が出たため、その霊を鎮めるために始めた」とされる。
「かぎ形」の由来についても諸説あり、「火でレ(さんずい)形を作り、火を以って水を手向ける」(『友うづら夢ものがたり』)、「梵字イの形で、除災、祈幸福の意」(『万燈山長圓寺由緒』)などある。古くは火の付きの良し悪しやかぎの形によってその年の稲の豊凶を占ったという。
僕は、この須美千坊と浅井千坊がどこにあったのか、とか天台宗と真言宗の宗論争いがどんなものだったか、気になって仕方がなかったのです。
(オイオイ、そんなブッソウな話が、この西尾にあったんか? って。不謹慎ですが、もしそんなことがあったなら、おもしろいよねー。)
で、須美千坊とか浅井千坊ってどこ?西尾にはそんなに天台宗とか真言宗の寺は残ってねーぞ。(真宗に改宗した寺で、もとはそうだった という話はちらほらある)
「須美千坊」については、「須美郷土誌(幸田町立図書館蔵)」により、
幸田町大字須美字向屋敷47にある敬覚寺(真宗大谷派)が、元は真言宗の寺院で、妙覚山等覚寺と称し、須美千坊の一つだった
ことが分かりました。
「浅井千坊」については、愛知県西尾市西浅井町古城1にある宿縁寺(真宗大谷派)の説明看板により、
元は天台宗の宿坊として建てられ。往時はたくさんの天台宗の僧侶がこの辺りに住み、浅井千坊って言われ宿縁寺はその中心だった
ことが分かりました。
須美千坊(真言宗)と浅井千坊(天台宗)の位置を航空写真に落としてみてのがこちら。須美千坊は、蘇美天神社のあたり とご理解ください。
間に横たわる、万燈山を含む須美北山・・・連峰(?)の写真がこちらです。
そして敬覚寺の裏山である茶臼山の麓には、平原の滝があります。
滝の傍らには薬師堂もあり、修行の場であることがわかります。この滝は慈覚太師(円仁)が平原の里に泊まった時、不思議な夢を見てこの山に滝があることを発見し、薬師如来を彫って祭ったのが始まりとか。それ以来、滝は「薬師の滝」と呼ばれ、滝水を飲めば長寿に、打たれると難病も治ると伝えられているそう
ここまでくると、宗論争いって、なんか山岳宗教(修験道)と関りがあるんじゃないかな?って思いません?
あと符牒が合うな って思ったのが、修験道の法流が、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される ってこと。
で、推論ですが、
「真言宗と天台宗の寺々(「浅井千坊」「須美千坊」)が宗論から争い」ってーのは、真言系と天台系の山伏(修験者=修験道を極めんとする人たち)の宗論争いおよび修行の場である山の使用権を巡っての戦いだったんじゃないか と。
・・・根拠はないんですが、一般的には山と無縁の西尾市(沖積平野が中心部)で、そのような山にまつわるような話があったとしたら、ちょっと面白いと思いません?
以下、リンクです。
万燈山、平原の滝、宿縁寺、敬覚寺、それぞれ散歩するには楽しいところです。よろしければ探訪記をお楽しみください。
平原の滝:西尾の文化財(9) 上永良神明社の大シイ (+平原の滝)
宿縁寺:西浅井町散歩(西尾市 源空院、宿縁寺)そして かぎ万燈
万燈山」マントウヤマノボレ0401