「源氏とのゆかりが深い」三河国(+西尾)だけど、一時期「平氏にゆかりの深い」地だったかも?

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以前にアップした文化財巡りの記事「西尾の文化財(16)  修法寺の銅像菩薩立像」において、 修法寺の隣にある高倉神社を紹介しました。

高倉神社の祭神は高倉天皇で、姫社には「平徳子」を祭るとあります。
平家の隠れ里ならいざ知らず、平氏関係者を祭るのは珍しいんじゃないでしょうか。 
先日行った一色赤羽別院のところに存在した 「赤羽根古城」は平安末期(1159)より平遠衡とその末裔が治めた と繋がるのかなあ。そこに住んでた平氏関係者が、少し離れた場所に二人を祭り(源氏の世の中に平氏を堂々と祭るのはさすがにヤバいんで、天皇と妃を祭った形)、あたりに関係者が住みつき、やがて村社となり現代に至る と考えたくなっちゃいますね。   ※「赤羽古城」についての参考記事 「一色の海を見に+赤羽散歩

以来、 成立由来不明とされる高倉神社の創建理由、赤羽古城を築城した言われる平遠衡 (鷲尾氏とも)と、高倉天皇および平徳子(建礼門院)との関係が気になっていたんですが、この地は一時期「平氏にゆかりの深い地」だったんじゃね? という妄想が浮かんだので、紹介します。

まず下の系図をご覧ください。

ネタ本:平成2年発行「赤羽郷土誌」 西尾市図書館  など

三家の系図を描いています。上から「天皇家」「堂上平氏」「伊勢平氏」の系図(関係分)です。※

赤羽城を築いたとされる平遠衡はオレンジ色、高倉神社に祭られた高倉天皇、平徳子が青色で表示しています。それから、 緑色で着色した人物は、 平氏で 三河国国司を勤めた(とされる)人物を表示しています。

系図は同世代の人物を縦に揃えて書いてあるので、着色した関係者たちは、まあ三世代(祖父〜孫)くらいの違いで同時代に生きてたんじゃないか と思われます。そして、 平遠衡はちょっと遠いんだけど、他の関係者は極めて近い婚姻関係を持っていることが分かるかと。

さらに、 退位して上皇になった高倉天皇は、平頼盛の屋敷で崩御しているのです。この 頼盛が三河国司経験者です。

ってことで、こんな妄想をしました。

三河国司を勤めた平頼盛の屋敷で亡くなった高倉天皇(上皇)。哀れんだ平氏一門はその霊を慰めるため、一門にゆかりの深かった三河国の沿岸部に神社を建てたのではないかと。そしてその後、 一門の悲劇の姫である彼の正妻も祭った。

妄想の根拠:三河は源氏にゆかりが深い土地とされているけれど、平氏が隆盛を極めたほんの一時期、平氏が源氏を駆逐して三河を統治していた可能性があるかと。

三代の三河国司に平氏がついていたこと、三河沿岸部も傍系の平氏一門が現地で抑えていたこと。 高倉神社にほど近い赤羽の地に平遠衡。 その他資料が残っているのは、 1159年の吉良荘(高倉神社在地)には平弘陰という現地支配人 がいたこと。吉良荘に隣接する志貴荘は、1166年に平信範が所有していたこと。

参考:平氏と協力関係にありながら、最終権力争いで敗れた源氏の棟梁(源頼朝の父)が、尾張国で殺害されたのが1160年。頼朝により源氏が勢力を回復し弟である範頼を三河国司に据えたのが1184年。この間の約20年、平氏が三河国特に沿岸部をがっつり抑えていた時期ではないかと。

「沿岸部」と言ったのは、文化財を回るうち、西尾とその周りの地域が伊勢地域と結びつきが強いことが見えてきたからです。それもしばしばそれぞれの地域を避難所みたいにして使ってるんですよ。 (伊勢は平清盛の属する「伊勢平氏」の根拠地です※。)   

西尾の志葉都神社のある盆地は「角平御厨」、隣接する幸田町の蘇美天神社のある盆地は「蘇美御厨」と呼ばれる伊勢神宮領だった

建稲種命を取り巻く話題(志葉都神社・蘇美天神社)

徳川家康の祖父、松平清康(在岡崎城)は1535年尾張国へ攻め込みますが、家臣に暗殺されます(守山崩れ)。残された子、広忠(10歳)。広忠は織田と結んだ一族に裏切られ城を追われ、縁戚の東条吉良氏・持広を頼ります。持広は広忠を伊勢にかくまうと共に、東条吉良氏の後ろ盾である今川義元に庇護を依頼します。今川義元は1540年に広忠を一旦西尾の室城へ入城させ、その後岡崎城へ帰還させます。

西尾の室町・戦国時代

西尾浄名寺の円空仏

この円空仏、もともと伊勢国にあったそうですが、明治時代の廃仏毀釈の時期に、三河の地に逃れて来たようです。(西尾市指定文化財)

西尾の文化財(26) 寺津散歩

戦国の頃、織田信長が三河諸寺を焼き払ったとき、その家臣である高山右近に薬師寺も焼かれちゃいました。

時の住職は本尊の薬師如来を畑に埋め、伊勢に逃げて身を隠していたそうな。

ある夜、「古里へ帰れ」と夢にお告げがあり、帰ろうと船に乗ったところ、なんと本能寺の変で伊勢から三河へ帰る徳川家康と同船だったそうな。んで、三河の港に着いた時、北に光る場所があったんだと。

不審に思った家康は、住職に「調べろ」と命令。住職が調べたところ、それは自分が埋めた薬師如来を埋めた畑だったげな。 家康は「これは幸先がよい!」と大いに満足し、お堂を建てたんだそうな。

西尾の文化財(25) 鎌谷町蓮光寺 薬師如来坐像

※ 「堂上平氏」と言うのは、高棟王を家祖とする平氏で 高棟流ともいいます。代々お公家さん(堂上)です。平氏で有名なのは、平清盛の一族なんですけど、こちらは 高棟王の兄弟、高見王を家祖とする 高見流平氏です。清盛(系図では太字で表示)から5代前の「平維衡」さんが伊勢国(現在の三重県)をこの家の根拠地として整備していたので、「伊勢平氏」とも言います。こちらは武家の家柄です。

系図を見ると、 「堂上平氏」 と 「伊勢平氏」 はずいぶん古くに分かれた一族なんですけど、平清盛の活躍した時代の平時信さんは、娘の一人を天皇に、もう一人を清盛に嫁がせ、「両権力者に保険を賭け、うまく栄達した」んですね。平氏の栄華をたたえる「平家にあらずんば人にあらず」という言葉がありますが、言ったのは清盛の直系の一族ではなく、 「堂上平氏」 である平時忠です。

両張りの効果もあったのか?この家系は、 志貴荘を所有していた平信範の子孫が「壇ノ浦で平家が滅んだ」後も、 高棟流平氏・公家として生き延びました。

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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