「どうなって家康」③松平家隆盛に絡んだ伊勢氏

前回までに、三代目信光まで話をしました。 信光は京都にいる実力者(室町幕府政所執事・伊勢貞親)の被官として勢力を伸ばしました。あとで出てくるので、伊勢貞親という名前は覚えておいてください。

政所とは・・・室町幕府の財政と領地に関する訴訟を掌る職。執事(政所の長官)は当初二階堂氏や京極氏(佐々木氏流)等が任じられていたが天授5年/康暦元年(1379年)の伊勢貞継の任命以後伊勢氏の世襲となった。

wiki 政所

信光は岩津城を拠点としたので岩津松平家(岩津宗家)と呼びます。 じゃあ四代目は、信光の嫡子で岩津松平家を継いだ松平親長なのでしょうか?  じつは、さにあらず。 なのでございます。

 松平親長は長年、京都で金融活動に従事しており、宗家を継いでも京都で活動していました。時はまさに世紀末・・・でありますから、いつも不在の宗家より、在地している一族の有力者がだんだん力をつけてまいります。それが、信光の三男・親忠です。安祥(安城)城を拠点としたので、安城松平家と言いますが、この家が宗家化してまいります。ってことで、四代目は安城松平家の親忠です。

親忠の代には、京都で活動する岩津宗家の親長にかわって、安城家が松平一族の惣領的地位を占めていたとみなされ、親忠が没した文亀元(1501)年の法要では、一族が結束して連判状を作成し、安城家の菩提寺である大樹寺(岡崎市)を守護していくことをちかっている。

画像とも 三鬼清一郎編「愛知県の歴史」より引用  

こういう文書が後世に残っているって、考えてみるとすごいことですよね・・・

さて、安城松平家が名実ともに宗家となったのは、永正五年(1508)に遠江を制圧した駿河の今川氏が西三河に進攻してきたからです。戦乱は数年に及び、岩津城は落城、岩津松平氏は滅亡してしまいました。といっても、親長くんは京都で生きていたとする説もあるのですが。

一方、この戦で名を挙げたのが、親忠の跡を継いだ安城松平の長親くん。この人が五代目になります。

永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞率いる今川軍は大樹寺を本陣として岩津城を攻めた(永正三河の乱)。・・・岩津への救援軍として安祥城の松平長親が井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶりに手を焼いて伊勢宗瑞の本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後を襲われることを懸念して、今川軍は撤退したという。)もっとも、今川軍の主要攻撃目標は嫡流である岩津松平家であったため、岩津落城を果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。この合戦の結果、岩津松平家は著しく衰退したと考えられる。

しかし、永正の三河の乱の後も岩津親長はずっと在京していたと見られ、永正17年(1520年)3月9日までは生存が確認されるとする見方もある。

wiki 岩津松平家

いや、そんなかっこいい話じゃないとする説もあります。安城松平家の去就は同時代史料からは明らかではないけれど、吉良氏(今川氏宗家)とかかわりがあったから生き延びられたんだ と。

家督を相続した信忠(注・六代目です)の「信」の字は吉良義信の偏諱とみられる。三河吉良氏の本領吉良荘と所領を接する安城松平氏は、吉良氏の影響下に置かれることで、今川氏の爪牙にかかることなく、家を存続できたものと思われる。

新編 西尾市史 通史編1 より引用

ま、まあ、生き延びた方が勝ち なんです!

さて、ここで出てきた、今川氏親(駿河国主)名代の伊勢宗瑞。氏親の叔父にあたるのですが、正式名は伊勢新九郎盛時。出家して早雲庵宗瑞と号します。後世「北条早雲」と呼ばれる人です。この時は今川氏の客将というような立場でした。

さて、この北条早雲なり伊勢盛時、最初に出てきた伊勢貞親と関係あるのでしょうか?実はあるんです。 つまり、「松平家が三河で台頭し、家康につながる支流/安城家が宗家になれた」のは、ともに伊勢氏が絡んでいるんですな。縁は異なものというか。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、貞親の同族備中伊勢氏の当主で貞親と共に幕政に関与した伊勢盛定の嫡男(一説には盛定の妻は貞親の姉妹であり、貞親と盛時は伯父と甥の関係であるともいう)とされ、貞親の推挙によって義視に仕えたと言われている。

また徳川将軍家の先祖にあたる三河の国人領主松平氏宗家第3代松平信光は、貞親の被官であり、貞親の命で額田郡一揆の平定にあたるなどして勢力を伸ばし、のちに戦国大名化していったとされる。

wiki 伊勢貞親

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていた。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉(または妹)にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられる。文明5年(1473年)に北川殿は龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

wiki 北条早雲

こ松平宗家は五代長親、六代信忠、そのあと七代清康、八代信忠、九代家康と続いていくわけですが、その道筋は決して順調なものではありませんでした。それを見てきた長命の五代長親くんに語ってほしいものです。なかなか数奇な余生?をおくってらっしゃる。

隠退後、入道し道閲と号した長親は、なおも信忠を後見・補佐したが、信忠は力量乏しい上に一門衆・家臣団からの信望が薄く安祥松平家が解体の危機に瀕した。そのため、家老・酒井忠尚(将監)の嘆願により道閲・信忠父子は、信忠の隠居と信忠の嫡子清康への家督継承を受け入れた。
 晩年は福釜・桜井・東条・藤井と新たに分家を輩出させた息子たちの中で、とりわけ桜井家の信定を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ広忠(長親の曾孫)が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。このために家臣団の失望を招いたという。
 後には広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(長親から見れば玄孫にあたる)に自分や清康と同じ竹千代と命名するように命じている。後の徳川家康である。しかし、長親の溺愛した信定は広忠の代まで家督に固執して松平氏一族とその家臣団に内紛を引き起こし、結果的には少年時代の家康の苦難の遠因となった。

天文13年(1544年)8月22日、死去。享年72。

松平長親

七代の清康くんは英傑でして、上記の事情により解体の危機にあった安城松平家を十三歳で相続。わずか3年後に敵対していた岡崎松平家の山中城を攻撃。たまりかねた岡崎家当主・松平信貞(西郷信貞とも)は所領と多くの家臣を明け渡し大草に退去します(以降大草松平氏と呼ばれる)。

 清康は岡崎領と家臣を吸収したことで安祥松平家の宗主権を強くします。また、信貞の居城である旧岡崎城を現在地に移し、居城を安祥城から移します。(安城松平氏の居城が岡崎城であるゆえん)新しい岡崎城のある地点は、東海道と矢作川が交差しており、水陸交通の要衝だったのです。

なお、このような安城松平氏の歴史から、同家の譜代家臣として、「安城譜代(安城時代から仕えた)」「山中譜代(岡崎家旧臣)」「岡崎譜代(岡崎に移ってから仕えた)」という分類があるそうです。

そのあとも大活躍し、二十代にしてほぼ三河国を制圧。25歳で隣国・尾張に攻め込みますが、守山城攻めの陣中で側近に打たれ死亡。松平軍は総崩れ、三河制圧も幻と消えました。(守山崩れ)。

清康の嫡男・広忠が跡を継ぐはずが・・・桜井松平氏・松平信定に領地を取られてしまいます。復帰のため、吉良氏、のちに今川氏を頼ります。復帰に成功するも松平家はガタガタ。織田氏による三河進攻に今川氏に援軍を求め、代償として竹千代(のちの家康)を人質として送ることに。 

wiki天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の松平信定は岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり所領を悉く押領し、また広忠を殺害しようと企てるようになった。
天文8年(1539年)、吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、吉良を見限り駿河へ
天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後岡崎城を占領した。
天文16年9織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。

wiki 松平広忠

天文9年(1540年)には、敵である織田信秀に安祥城も占拠されてしまいます、信秀は城代に織田信広(信長の兄)を置いています。

天文16年、今川氏に送られるはずだった人質・竹千代は拉致られて織田氏に送られます。

天文18年(1549年)に広忠が病死。同年、今川(松平)軍が安祥城を攻め城は落城。捕虜となった織田信広と竹千代を人質交換。竹千代は駿河で人質生活に入ります。 あとは・・・大河ドラマをご覧ください。

参考 松平家系図

「愛知県の歴史」より

安祥城訪問記室(牟呂)城訪問記も、よかったら読んでください。  

「どうなって家康」②ネットワークの松平氏

徳川家の始祖となった松平親氏(徳阿弥)が治めることになった松平郷、その統治はどのようなものだったのでしょうか? 司馬遼太郎は次のように記述しています。

「三河物語」によれば、この山里は「道ホソクシテ石高シ」というぐあいだったのを、徳阿弥は百姓たちに、カマ、クワ、ヨキ、マサカリなどをもたせ、道路を四通八達させ、また橋をかけさせたという。

山中に道路網を張ることによって、ただの山を人々にとっての有機的な働きをする場に変えたのである。このことで、生活と生産、それに軍事の面で、松平郷は一変したのに違いない。

司馬遼太郎 街道をゆく43「濃尾三州記」より

「道路を使い各地を漂泊してきた人」が棟梁になることで、どこにでもあった山里暮しの中に、道路網「ネットワーク」が導入され里が一変した感じ。あたりの山里から、一歩抜き出ました。

そんなネットワーク力を更に生かしたのでしょう、二代泰親や三代信光の代、松平家は「商人」(武装した運送屋から金融業を幅広く運営していたんじゃないかと想像)として力を蓄え飛翔していきます。その活躍範囲は三河にとどまらず、京都や近江を含む幅広いネットワークを持っていたようです。

また、地元の事情に明るい三河国守護の被官となる(これが通常の形態)のではなく、京都の実力者の被官となることで、地元での行動の自由度を上げるような選択もしていたよう。

『三河物語』によれば、松平氏第二代とされる泰親は松平郷を出て岩津の城を強奪し居城としたという。・・・この進出は武力ではなく買得によるものと推論する説もある。

・・・二代目泰親の代には有徳人としての経済活動で松平氏は力を蓄え、室町幕府の政所執事伊勢氏に仕えて政権中央との関係を結びながら三河国内のみならず京都・近江国にまで活動範囲を広げた。

wiki 岩津松平家

信光は幕府納所執事の伊勢氏被官として、幕府御料所の山中郷などの代官をつとめ、額田郡内に地歩を固めた。信光弟の益親は、伊勢氏被官として十五世紀なかば京都を拠点にして北近江の日野家領大浦荘の代官をつとめ、金融活動も行っていた。信光惣領で岩津家をついだ親長も、引き続き京都で金融活動を行っている。

三鬼清一郎「愛知県の歴史」より

やがて根拠地を松平郷から矢作川のほとり岩津(岡崎平野の上端部)に移しました。 岩津松平家の成立です。  少し先走りますが、以降松平宗家の本城は岩津→安祥(安城)→岡崎と変わっていくのですが、いずれも矢作川の近くにあります。当時の大動脈である矢作川の舟運ネットワークを抑えるという明確な意図があったものと思われます。

このあたり、愚直で主君に忠実、戦にめっぽう強いが・・・という常識的な「三河武士」のイメージととまったく違う存在に見えますね。

(ただし、家康時代にも、かなり商家色の濃そうな有力家臣もいます。鳥居元忠で代表される「鳥居家」です。元忠の祖父にあたる鳥居忠吉とか特に★1)。

(松平郷は、信光の兄が継ぎ、小豪族として平野部の兵乱に巻き込まれることなく存続しました。のちの松平郷松平家です★2)

以降、平地に降りた松平氏は軍事力を強め(世の中が乱れてきたという背景もある)、矢作川流域である岡崎平野そして三河国を手中にすべく活動を開始していきます。その一つの契機になったのが、1465年に起こった額田郡一揆の討伐戦でした。

額田郡内における領主権は主筋の伊勢氏を背景に獲得したものであったが、伊勢氏の命を受けたこの一揆討伐では本格的な軍事行動によって鎮圧に成功し、松平氏は在地三河での領主的存在感を示すことが出来た。またその論功行賞として幕府から深溝・形原・竹谷・五井・長澤等の新所領を獲得に成功した。これにより、勢力を西三河のみならず東三河宝飯郡の一部にまで拡大し、各々に松平庶家を分出した。これらは後に松平氏が三河国において戦国大名化するための足がかりとなったと言える。

額田郡一揆

信光は論功行賞で得た領地だけでなく、武力で岡崎や安城(当時は「安祥」と言った)を支配下に加え、各地に子を配し、三河の戦国大名である松平氏の基礎を築きます。手が早いというか、「英雄色を好む」のも先祖譲りなんか・・・?

長命で子も多く、『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』によると48人の子供がいたという。自身の子を分立させ、竹谷松平家、安祥松平家(後の松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家が各地に置かれた。

wiki 松平信光

以降、三河各地に分家を置くことが「当家のブーム」と言わんばかりに分家しまくり、まるでオセロゲームのように三河(矢作川流域+一部宝飯郡)が松平一党に塗り固められます。

「愛知県の歴史」より

世に「十八松平」という言葉が残っているくらい。

十八松平(じゅうはちまつだいら)は、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに鼠算式に分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を含める場合もある。家康の祖父・松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。
「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。

wiki 十八松平

記載されている通り、十八松平がどこを指すのか定説はないのですが、江戸時代まで残った徳川家以外の十四家ははっきりしています。 家名と初代の素性、名前の元になった領地、幕末の代表的な位置づけ の順で紹介します。

  • 竹谷松平家 – 岩津松平信光の 長男 宝飯郡竹谷(蒲郡市竹谷町)、宝飯郡5千石旗本
  • 形原松平家 – 岩津松平信光の 四男 宝飯郡形原(蒲郡市形原町)、丹波篠山藩5万石
  • 大草松平家 – 岩津松平信光の 五男 額田郡大草(額田郡幸田町大草)当初は額田郡岡崎(愛知県岡崎市)なので岡崎松平と言った。1千石旗本・無子断絶
  • 五井松平家 – 岩津松平信光の 七男 宝飯郡五井(蒲郡市五井町)、遠江で5千5百石旗本
  • 深溝松平家 – 五井松平忠景の 次男 額田郡深溝(額田郡幸田町深溝)、肥前島原藩6万5千石
  • 能見松平家 – 岩津松平信光の 八男 額田郡能見(岡崎市能見町)、豊後国杵築藩3万2千石
  • 長沢松平家 – 岩津松平信光の十一男 宝飯郡長沢(豊川市長沢町)、本家断絶。分家の大河内松平家(知恵伊豆こと松平伊豆守信綱を輩出)が上総大多喜2万石。
  • 大給松平家 – 安祥松平親忠の 次男 加茂郡大給(豊田市大内町)、三河西尾藩6万石
  • 滝脇松平家 – 安祥松平親忠の 九男 加茂郡滝脇(豊田市滝脇町)、駿河小島藩1万石
  • 福釜松平家 – 安祥松平長親の 次男 碧海郡福釜(安城市福釜町)、本家断絶。庶家旗本
  • 桜井松平家 – 安祥松平長親の 三男 碧海郡桜井(安城市桜井町)、摂津尼崎藩4万5千石
  • 東条松平家 – 安祥松平長親の 四男 幡豆郡東条(西尾市吉良町)当初は碧海郡青野(岡崎市上青野町)なので青野松平と言った。 無子断絶。家臣団は尾張徳川家に引継
  • 藤井松平家 – 安祥松平長親の 五男 碧海郡藤井(安城市藤井町)、信州上田藩5万3千石
  • 三木松平家 – 安祥松平信忠の 次男 碧海郡三木(岡崎市上三ツ木町)、本家断絶。庶家旗本

三河に松平ホールディングスが完成した戦国時代、西の織田氏と東の今川氏に挟まれた彼らは自分の会社(家)が生き残ることを最優先としながら時に一族結束し、時に今川織田方に別れ一族で相争いながら、総合的に見れば松平宗家(安祥松平家)の勢力拡大に寄与。宗家が徳川として天下を取った江戸時代まで十四家が生き残りました。 

 *あれ、松平宗家は岩津松平家じゃないの?それに安祥松平家の居城は安祥(安城)城で、岡崎城じゃないよね?と思ったあなた。鋭い! でも長くなったので、その話は次回にしとうございます。乞うご期待。

松平家より早くから三河に基盤を持っていた名家・吉良家は分裂した東西二家がひたすら争っており、三河国では領地を幡豆郡の一部から拡大できませんでした・・・。松平家と親族になったり(堯雲寺の記事参照)、弱体化した松平家を助けたり(室城の記事参照)もしたのですが、最終的には三河統一をめざす家康に飲み込まれていきます。 まあ名家のため、のちに小領主として復活させてもらったけれど(堯雲寺と岡山陣屋の記事参照)。

★1 鳥居忠吉

天文18年(1549年)竹千代(後の徳川家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、鳥居忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていた。だが、収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮する。そんな僅かになった収穫であっても、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。

阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝されたという


苦難の時代に異常なほど財を蓄えていたのは忠吉が「ワタリ(渡り)」(各地へ物品を買い求め売り捌く商工業者)だったためではないかと推測されている。『永禄一揆由来』では「分際宜き買人」とあり、『三州一向宗乱記』では「農商を業とする富裕の者」とあり、鳥居家はかなりの経済力を持っていたようだ。鳥居家は三河碧海郡を居としており、ここは矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていたと考えられている。

wiki 鳥居忠吉

家康飛躍の影の功労者となった鳥居忠吉、そのお墓は西尾市の不退院にあります。訪問記はこちら

★2松平郷松平家

松平郷松平家の実質上の初代は、親氏流松平家の初代・松平親氏(14世紀後半頃)の長子とされる信広である。信広の弟とされる松平氏三代・松平信光が所領を三河国平野部に拡張して額田郡岩津郷(岡崎市岩津町)に居城を移したとき、松平氏の元来の所領である山間部の松平郷が長子の信広に譲られたことにより、嫡子の信光系の松平本宗家(安祥松平家または岩津松平家)から別家された信広系の松平郷松平家が成立した。ただし、庶宗家と呼ばれるのは分家の一つ安祥松平家(徳川家)の成長後であり、元来の所領を受け継いだことから考えて、実際は名実共に嫡宗家と見られていたと考えられる。

江戸時代に入ったとき、松平郷松平家の所領は250石余りであり、結局440石余りの旗本身分に貶められた。しかし松平氏発祥の地である松平郷を領有し続けたこと、将軍家の始祖である親氏直系の宗家であることから最低限の待遇を受け、交代寄合として大名なみに参勤交代を行う家柄とされた。ただし江戸に屋敷は与えられず、江戸に入った際は分家で江戸在府旗本の松平次郎左衛門家か、奥殿の大給松平氏の屋敷の居候扱いとされた。

wiki 松平郷松平家