西尾の文化財(12) 岡山周辺 【下】

昨日の上編の続きです。

岡山全体図
追加 地理院地図(標高図) 若山古墳のある山は割愛。

④堯雲寺

堯雲寺

堯雲寺

住職のいないお寺です。建物は普通の民家みたいですけど、注意してみると軒先に鐘がぶら下がっているので、お寺かな?とわかります。

なんの変哲もないお寺ですけど、ここには、徳川家康の伯母である俊継尼の菩提寺で、その墓が残っているのです。そんな人が眠っている墓所なのに、無住とは・・・

お墓

上の系図で、□で囲った人ですね。寺の縁起看板によると・・・義安が駿河で亡くなった後※、義定を連れて吉良に帰ってきた。家康はこれを知り、伯母の俊継尼と義定のために瀬戸に200石を与え吉良家を再興させたそうです。「堯雲院殿俊継貞英大姉」

※統一吉良家の当主だったが、今川氏と仲が悪く、今川義元に人質として駿河に連れていかれた。家は弟義昭が継ぐが、徳川家康との戦いに敗れ吉良家はいったん断絶します。なお、この時代の吉良氏は、同族の今川氏とすごく近い親戚関係になっています(今川氏が主君筋)。その勢いで徳川氏ともっと婚姻関係を結んでおけば(無理かな)、もっと発展したかも・・・ま、家柄的には松平家より「格上」なので無理な話かもしれません。あるいはそういう名門意識が、赤穂事件には悪い方向に働いたかもしれません。が。それはのちの話。

本堂裏の感じとか、鎌倉の古刹にも似て?、磨けば風情ある地だと思いますが、惜しい・・・

本堂うら

竹藪の中に小道があり、徒歩なら昨日紹介した岡山八幡宮へ抜けることもできます。あるいは八幡宮の神宮寺だったのかもしれません。

竹藪の道

⑤岡山陣屋跡

さて、先ほど述べた「俊継尼と義定のために与えられた瀬戸200石」ですが、これを統治するため「岡山陣屋」が置かれました(当初は館があったようです)。旗本吉良氏の領地管理の要ですな。今は門構えが残るだけ(再建でしょう)。また、このあたりの地名は「殿町」です。

岡山陣屋跡

義定は瀬戸に200石、鳥羽に300石、合わせて500石与えられたそうです。鳥羽って、西幡豆の鳥羽ですかね?(西尾市内です) その後の吉良氏は息子の義弥の代に3000石+高家職、さらに孫の義冬の時代に4000石となりました。そのあとはね・・・

⑥西林寺

道路を渡って瀬戸にはいります。

西林寺

このお寺も無住ですね。門前にシイの木が残っています。根回り6mほど。この辺りはスギやシイが生い茂る林になっており、このシイが西端に当たるため、西林寺なんだそうな。 この木は市の天然記念物です。

大椎

このお寺の境内(というか瀬門神社の境内なのかしら?)には、南極探検家である白瀬矗(ノブ)氏のお墓があります。

お墓

彼は秋田県にかほ市の出身で、西尾市と直接の関係はありません。南極探検(政府援助が一切ない民間の探検)のあと、莫大な借金を抱えた彼は、全国(海外も含め)行脚して講演を行い借金を返し、豊田市で死去。奥さんは娘さんを連れて瀬戸へ移住し死去。娘さんは両親の墓を西林寺に埋葬して東京へ移住されたそうです。

墓域には、いろいろなものが展示してあります。南極観測船「しらせ」のスクリューの一部(チタン合金製だそうです)、西尾市教育委員会から「吉良の子」らへあてた訓告看板。白瀬氏の南極探検で待機したオーストラリアウラーラ市の看板(の複製)など。

オーストラリアの看板
南極観測船「しらせ」スクリュー(一枚)
吉良の子らへ

白瀬氏の南極探検は資金難で、南極に向かうために購入した開南丸は、わずか200トンの中古帆船で、それに18馬力のエンジンをつけただけだったそうな。現在の200トンクラスの船につけるエンジンは最低でも200馬力はあるそうで、これはほぼ帆船ですな。それで南極まで行っちまうんだからすごいというか、恐ろしいというか。  同じ時期に南極を目指した人たちが、こんな船で・・・と驚嘆した(「ジャップはクレイジーだ」が正解だと思うが)とか、無理じゃね?と判断した政府は資金を出さなかったとか、まあ成功したからあれですけど、確かにクレイジーですなぁ。

が、この貧乏南極探検において、一人の死者も出さなかったのは、南極点にははるかに及ばなかったとはいえ、特筆すべき偉業です。

⑦瀬門神社

不思議な名前ですなぁ。 寺の由緒はよくわかっていませんが、源頼朝が、奈良東大寺の再建のため上洛するにあたり参拝、本殿を修復した そうです。その後、徳川家康が、近くの東条城攻略のため(城主は先ほど出てきた吉良義昭ね)戦勝祈願した とか結構有名人の名前がちらほら。

秋の祭礼で馬駆けをやるそうで、馬具が県の文化財に指定されているそうです。

あと、この神社はどうも弓道に縁が深いようです。拝殿には、的中(弓道で射った矢がすべて的に命中すること)したときに奉納した「金的中」の額がいっぱい奉納されていましたし、さびれていましたが、的を置く的場がありますもの。

金的中
的場
神社から見た城山(矢印・東条城)

てな感じで、岡山探訪を終わります。

西側からみた「岡山」丘陵

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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