西尾の文化財(19)実相寺

正式名称は「瑞境山 實相安圀禅寺※1」です。 石碑のある入り口から覗くと、松林の向こうに釈迦堂が見えます。 僕は小さいころ、隣にあった小学校に通っていたので、まあなじみの場所ですかね。あんまり丁寧に見たことはないんだけど。

このお寺は、吉良荘(このあたり)を治めていた吉良満氏が、吉良氏の菩提寺として文永八年(1271)に開基しました。文永というと、「文永の役(元寇)」を思い出しますが、あれは文永十一年。このころは「日本はモンゴルに従え」「ヤダー」という交渉をしており、風雲急を告げる時節でございました。

開山は京都東福寺を開山した円爾(聖一国師)です。吉良(足利)氏は有力御家人だったので、領地の菩提寺にもビックネームを呼べたのです。

聖一国師は、この時宋から持ち帰ったの実を実相寺植えた という説もあります。聖一国師の属す「臨済宗」の開祖栄西(「喫茶養生記」という著作もある)が日本に喫茶の習慣をもたらしたと言われていますからあり得る話です。が、西尾市で抹茶生産が盛んになったのは、明治時代に宇治から茶種が持ち込まれてからのことですから、この時が直接の起源ではないようです。また、実相寺境内に「茶樹」は残っていません。

でも写真を見たら分かりますが、代わりに松林があるでよ。 「実相寺は松林の中に建てられた」との伝承もあり、三河クロマツ群生としても貴重ってことで、市の天然記念物になっています。 僕の記憶では、昔はもっと鬱蒼として暗かったように思うんだが、松くい虫にやられたんかなあ。

ここでふと、ある随筆の一部を思い出しました。ここで一度やってみたいね。

やはり十二月頃だったか、三島市山麓の龍沢寺に中川宋淵老師を訪れた際、汽車が途中事故をおこして、夕食時になった。老師は、私たちを寒風ふきそよぐ松林の庭に案内された。と地べたに赤毛氈がしかれてあって、わきにやはり小さな石づみが見えて、雲水のひとりが、附近の落松葉を手でかきあつめてきて焚いた。それに茶釜をかけ、煮たった茶湯の熱いのを一服頂戴したあと、老師は隠寮からブランディカップにナポレオンをついでもってこさせて私と乾杯された。そうしているうちに、雲水のひとりが、松葉の燃える炎に、わかめをかざしては焼き、それを懐紙の上にのせて、毛氈の上におく。手をのばして、パシパシとそのわかめの香ばしいのを舌にのせてはブランディを呑んだ。

「そろそろ撞いてもらいましょうか」

何のことやらわからぬ。老師のひと声で、走っていった雲水が、やがて、松林の向うの鐘楼で鐘をついた。昏れなずむ林間のしじまを、鐘の音は糸になって耳にとどき、松葉の煙がそれをさらに嫋々と長く空にひいて、ともにまぶれ消えるようだった。私は風流というものは、こういうものか、と老師におそわった・・・

水上勉「土を喰う日々」 より

風流を味わってみたいけど、用意するのはブランデー。それもナポレオン。雲水さん走らす。風流はいろいろ大変なの(笑)。

さて、その奥に釈迦堂があります。 釈迦堂と内部の釈迦三尊像は県の文化財、同じく四天王像は市の文化財です。釈迦堂の内部には入れませんが、年一回、四月の花まつりで開帳されます。僕は昔行って「甘茶激マズー」と感じて以来行ってないけど。また仏像見に行かなきゃ!

このお堂は、鳥居元忠が天正時代(1576〜)に浜松の弘忍寺の古堂を移築したものと伝えられています。が、昭和の大修理で「永禄二年(1559)四月二十四日鴨江寺之住呂昌政」という墨書が見つかったとのこと。弘忍寺じゃなく鴨江寺から移築の可能性が※2?

この辺り、実相寺をめぐる年表はいろいろ入り組んでます。結論だけ言うと永禄三年に実相寺は全焼失し、後に鳥居君が復興したのです。エライよ鳥居君!。

容疑者は織田信長。実相寺が焼失したのは永禄三年(1560)五月五日。今川義元が尾張侵攻に向け駿府を発ったのが五月十二日。桶狭間で首を討たれたのが十九日(桶狭間の戦い)。

まあここは吉良氏の菩提寺。弱小領主吉良氏は、今川氏と織田氏の強豪に挟まれあっちについたりこっちについたりせざるをえません。だから吉良氏領は両者がお仕置きに来る最前線だったんです。さらに、そのあたりの時代の実相寺の住職には、今川氏の宰相とも言われた「大原雪斎※3」までいます。実相寺の中興の祖でもありますが、この寺は今川の駐屯基地でもあったのでしょう。そりゃ信長は「来るなら来てみろ~」って挑発で焼き討ちしますわ。ともかくそんなわけで、中世吉良氏由来の古いものはあまり残っておらんのです。

さらに境内を奥に進むと、塀に囲まれた本坊が見えてきます。

左から「方丈」「鐘楼」「勅使門」です。

鐘楼にぶら下げられた梵鐘は、南北朝時代のもの。(県文)この鐘楼は大みそかにお寺に来ると、除夜の鐘として突くことができます。つーか、毎年人が少ないから108鳴らすの大変。ぜひおいで下さいませ。と僕が言うことないけど。

方丈の右側に「庫裏」が続きます。方丈は慶長8年(1603)庫裏は元禄時代(1688〜)の建物で、江戸時代の臨済宗の雰囲気をよく残す ってことで市の文化財になってます。が、もうボロボロなので、これから修復をするそうです。

大分傷んでます。
方丈

 

 

 

 

 

鐘楼
庫裏

しかしなあ、この時代に修復二億円余りってなあ・・・市の文化財と言っても、全公的資金はたぶんわずかで、ご協力を呼びかけざるをえないのでしょうけど。

ご協力を呼びかける看板

もちろん古い建物好きの僕としては、残すのがいいとは思います。けど、そこまで多額の金をかけてどーしても残さなならんものでしょうか?形あるものいつかは・・・って仏教思想ですよね。ま、そこまで極論を言わずとも、幼稚園を無料化せざるを得ないほど貧乏な現世、安く何とかする手段はないの?と、別の寺の檀家として起こり得る話として考えこんでしまいました。 ま、ここにはいろんな考え方があると思いますけど・・・

とまあ辛気臭いこと考えてる目の前に・・・ウサギ!神兎?いやどう見てもペット。

「うさんぽ」なんで一匹なの?飼い主さんは?野良???

ウサさんはさも当たり前のように、あっちの方に跳んで行かれました。な、なんだったんすかね。「紹介ブログなんだから、さっさと寺の紹介を続けよ」 という教育的指導?(笑)。

まあ気を取り直しまして・・・方丈の裏には古井戸があります。げ、すげーでかいよ、これ。創建当時からあるもののようです。相当数の僧侶の生活を賄えますね、

竜宮につながっているとの言い伝えも。
ふむワトソン君、竜宮につながるにしては水面が近すぎるようだね。

さらに奥へ墓地から「八十八カ所札所巡り」へと続きます。きれいに掃き清められ、お地蔵さまが並び、静かで落ち着ける雰囲気です。ってぼーっと歩いていたら大きな蛇がいましたけど。今日はいろんな神獣?に会う日だなあ。

あとは・・・

釈迦堂の左側にちょっとした庭があり、その奥に石碑がいくつかあります。戦勝記念とかですけど、中に一つちょっと面白い石碑が。

この庭の奥でーす。

「明治十年西南戦争後紀念」とあります。西南戦争が終わったのを記念して建てた碑のようですが、どういういわれがあるんでしょうね?しかも横には「子爵 松平乗承」と。この人は西尾藩最後の殿さまです。いや家督相続は明治6年なので、殿さまではないですね。明治十年ごろは、日本赤十字社の設立に奔走していましたそうですから、その関係でしょうか?

おまけ

寺を出ると、隣に西野町ふれあいセンターがあります。ここが旧西野町小学校で、僕はここに入学し、小学1年生としてしばらく通ったんですね。その後学校は移転しましたが、この校庭から実相寺の方角を見ると、木が鬱蒼と茂ってて、怖かった覚えがあります。

左側が実相寺。 ところで正門にこんな門扉だったっけ?うーん、覚えてない。
卒業アルバムから

卒業アルバムに正門の写真は無かったんだけど、校舎の写真がありました。この写真見ていろいろ思い出しましたよ。

この木造校舎の手前側が1年1組。休み時間に僕はここから中央の通用口を出て、滑り台に登って、上でトラブって落ちたんだわ。

掛けてた眼鏡の蝶番部が顔に刺さって凹み傷ができていまだ少し残ってる。おかげでそれを記憶してる(笑)。

あと、木造廊下の拭き掃除で使う雑巾がスゲー臭かったこと。雨の日は陰気で暗い廊下が怖かったこと。新校舎への引っ越しで自分の椅子を運ばされ、重くて閉口しつつ、コンクリートの真新しい2階の教室に移れたのがすごくうれしかったこと。 あれ、何を習ってたか全く思い出せない(笑)。

子供心に、この校舎は使いにくかったんだろうと思うけれど、大人になって当時のつらいことはほぼすべて忘れ、こういう木造の校舎って味があっていいねえ って感じ。これってまさに「Alma Mater」ですね(しったかぶり)。これは英語圏で母校を示す言葉。普通は高等教育機関を示すらしいですが、日本の大学建築ってアイビーとか絡まってないし美しくないんで(笑)。

 

このあと、上町、小間、法光寺あたりをうろついてたのですが、同じ小学校区とはいえ、当時僕は極端なインドア派だったので、さーぱり道が分かりませんでした。しくしく。続きはまた。

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※1 実相寺を、足利尊氏が各国に設置した三河安国寺である と解説しているものもありました。確かに「安国」寺ってそうそう名乗れないでしょうし、足利氏(一門の吉良氏)ゆかりの寺ですし。 でも三河安国寺を名乗るお寺は他にあるんですね。曹洞宗太平山安国寺です。他にも尊氏が寺領七千石を寄進したとか。うーん、桁が違うんじゃないかなあ? ともあれ、中世の実相寺がどんな状況だったのか あんまりわかっていないみたいです。何せ記録焼かれちゃってるしね。

※2 吉良氏と鴨江寺は全く知らない仲でもないですよ。仲良しでもないけれど。吉良氏は浜松荘も治めていたんだけど、その始まりは「南北朝時代の1341年、吉良氏の3代貞義が遠江国浜松荘の鴨江寺の寺規を定めた」のが、現時点で分かる始まりであり、「今川氏が1517年10月、鴨江寺の寺領を安堵。」浜松が今川氏の勢力下に組み込まれ、吉良氏が浜松を失ったのが終わりだから。鳥居君が、吉良氏の菩提寺だった寺に縁のある鴨江寺から建物を移設する ってこともあったかもしれない。まあ、鴨江寺は真言宗の別格本山。実相寺は臨済宗妙心寺派だけどね。 弓取まいかさんのブログ【浜松荘】吉良氏が約200年支配 を参照。

※3 大原雪斎は、もちろん僧侶としても優れてたし、ふさわしいから実相寺の住職になった面もあるのでしょう。 雪斎は最初駿河の善得寺に入り、京に上り建仁寺や妙心寺で修行したのだけれど、善得寺時代の師である琴渓承舜(きんけいしょうしゅん)は吉良氏の出身らしいです。師に関係のある寺を、実力のある弟子が継ぐのはまあ一理ありますよね。で、その時に実相寺は妙心寺派に変わってます。ちなみに大原雪斎は実相寺住職(1554)になる前、京都妙心寺の35代住持(1550)に就任しており、のちに宝珠護国禅師との称号をもらっているから、やっぱ僧侶として傑物だったのでしょう。 ついでに、建仁寺と妙心寺で一緒に修行した弟弟子「栴岳承芳」はのちに還俗し、今川家を継いで今川義元と名乗ったのだ。本格的に修行してたらしいよ。

 

愛知大学豊橋キャンパス (旧十五師団司令部跡)

季節の変わり目で、鼻がムズムズ。花粉症?風邪?状態の今日この頃。

用事があって、豊橋に行ったついでに、愛知大学(豊橋)にキャンパス見学に行ってきました。このキャンパスはなかなか面白いところです。

始まりは、帝国陸軍第十五師団司令部。その後陸軍予備士官学校。さらにその後、旧制愛知大学(中国にあった東亜同文書院の教授と学生を収容)となり現在に至る という歴史を有してます。

下の写真は、明治41年(1908)に第十五師団司令部として建てられた建物です。(愛知大学旧本館) 明治村に移築されてもおかしくないくらいですが、ここは記念館としてまだ現役。

十五師団が設立されたのは、日露戦争中。この戦いは日本に余裕がなく、内地の師団を根こそぎ対ロシア戦に持って行ってしまったので、内地の守りと予備師団が無くなっちゃいました。ヤバいぞー ってことで明治38年に動員を行い、この年に全国に四師団造ったうちの一つ。

あ、「師団」というのは、独立して、一つの作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位のこと。 なので歩兵だけでなく、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵(輸送部隊)を傘下に持ってました。参加の部隊は以下の通り。()は旅団司令部や大隊本部があった場所。

歩兵第17旅団 (豊橋)、歩兵第29旅団(静岡)、騎兵第4旅団 (豊橋)、野戦重砲兵1旅団(三島)、工兵第15大隊(豊橋)、輜重兵第15大隊(豊橋)

一師団は総計ではだいたい2万人くらいの人員になります(時代により異なります。まあオーダーとして)。部隊は各地に分散して駐屯していたのですが、それだけの人が所属する組織の駐屯地及び司令部がここに置かれたのですから、明治時代の地方都市の経済やらなにやらに、ドーンと大きな影響を与えるわけです。

が、大正14年(1925年)第一次大戦後の軍事的脅威の薄れから四個師団の廃止が行われ、第十五師団は廃止になりました。時の陸軍大臣宇垣一成の名前を取り、宇垣軍縮と言われます※。

廃止だと〜!地元としては企業城下町で主要工場を閉鎖したり、原発が稼働を停止したりする事態に似てます。税収が・・・ 施設が落としてくれる金が・・・ という感じ。

大丈夫です。もんじゅ廃炉にするけど、そのあと研究炉やるから、勘弁してよ・・・

に似た地元救済策として? 陸軍教導学校、そののち陸軍予備士官学校が置かれます。 これはいざ戦争になると、前線指揮官である中尉、少尉が大量に必要になるので、それをあらかじめ育成する学校です。「平時は民間人として働いててね、お国の大事となったら動員するね💛」ってこと。でも実際には日本帝国は昭和12年の日中事変以来、ずっと戦争してましたんで、ずっとお国の大事状態でした。 なお教導学校は下士官を養成する学校です。

ですが戦争に負けて軍備は禁止になったので、この学校も不要になり、跡地が開いちゃいました。そこで高校を移転させ(時習館高校 wikiによれば、敷地面積公立高校全国二位だそう)さらに中国にあった東亜同文書院の教授と学生を収容する大学が開学しました。

「東亜同文書院」は明治34年(1901年)に中国は上海に設立された日本人を対象とする高等教育機関(昭和14年には大学に昇格)でしたが、敗戦と同時に中国に接収され消滅。

ただし愛知大学は東亜同文書院大学を「前身ともいえる」という立場をとっており、豊橋図書館には旧東亜同文会所蔵の図書や支那調査旅行報告書が残されたり、愛知大学東亜同文書院大学記念センターが設置され、東亜同文書院大学の資料の展示が行われているようです(日曜閉館。見たいのに、日曜日休みとは・・・)

愛知大学は現代中国学部が設置されてもいて、地元では「中国に強い大学」というイメージがあります。 (んー、でも確か現代中国語学部は名古屋キャンパスで教育をうけるんだよね・・・)

旧司令部(裏側から撮影)
たぶん旧将校集会所・・・
たぶん旧銃器取扱所 基礎がレンガ造りだぞ!
記念植樹 大正時代に師団長を勤めました。

※この軍縮は、浮いたお金を陸軍の近代化に回したり(全く足りなかったんだけど)、軍隊にとって良いこともあったのですが、将官の整理(首切り)をやったので陸軍内では評判が悪く、後に宇垣氏が指名されても組閣に失敗し、総理大臣になれなかった※理由の一つになります。 いつの時代の官僚(軍官僚)も、自省の力を弱めるのは絶対のタブー。

※当時は「軍務大臣現役武官制」が復活しており、陸軍大臣と海軍大臣は、現役軍人でないとなれませんでした。(宇垣は予備役大将でしたが、予備役はダメ)。だから気に入らない総理大臣候補者の場合、陸軍(軍官僚)が結束して「陸軍としては現役軍人を大臣には出せません」とごねれば、その候補者は総理大臣になれなかったのです。 「軍務大臣現役武官制」は一度廃止(予備役でもOK)されたんだけど、その時強硬に廃止に反対したのが、官僚だった宇垣だったので、まあ仕方ないんですけど。  軍部の政治力増大もムベなるかな という気もします。

のちに東条英機は総理大臣兼陸軍大臣となりましたが、これは現役軍人のまま総理大臣になったから(異例)です。 ←軍部を抑えるには「毒を以て毒を制す」しかないと判断されたため。