西尾の文化財(18)寺津八幡社

文化財は、室町時代の和鏡ですが、もちろん非公開なのれす・・・。

教育委員会の看板
拝殿 何やら神事が行われていました。鏡が出てないかな・・・

祭神は誉田別命(応仁天皇)と徳川家康。 徳川家康※が祭られたのは江戸時代に入ってからですから、後ほど書く大河内氏つながりですな。 ともかく家康を祭ったので、江戸時代の朱印地は三十五石と、旧吉良荘(このあたり)の神社としては最高だったそうです。

※その関係でしょう。wikiによれば、拝殿の扁額は、徳川家十六代当主、徳川家達によるものだそうです。

主要道に面した堂々たる面構え

江戸末期、この神社の神官に、江戸時代の国学者「渡辺政香」が出たことで有名ですが、正直僕は「国学」ってよく分からないので、ここはパスします。『参河誌』を編集し、学者さんなので本をたくさん集め、それらの本が現在「寺津八幡書庫旧蔵本」として西尾市岩瀬文庫に納められています。とりあえず本好きにありがとね。

他の見どころと言えば、大河内氏関係のこの二つ。

ここ寺津の地は「大河内氏」発祥の地で、後にその子孫の大河内正敏という人が、八幡宮の碑を建てたのです。「大河内氏」とか「大河内正敏」って誰だよ〜?

大河内氏は寺津城を根拠にした吉良氏の家老でした。その後吉良氏は衰退し大河内氏は同郷の伊奈忠次(初代関東郡代)に使え、江戸初期この家に麒麟児が生まれたのです。その麒麟児と叔父さんとの会話。

麒麟「ねえおじさん。僕は偉くなりたいんだ。だからおじさんの養子にしてよ。」

おじさん「ほえ?」

麒麟「おじさんの苗字は松平だろ。僕の大河内家は代官クラスにすぎないけど、松平なら徳川家連枝だから、僕の年頃なら、将軍家(徳川家)若君の小姓になれる。そのまま出世街道を突っ走れば、うまく行けば老中だってなれるかもしれないんだ。お願いだよう!」

おじさん「(カッコウの托卵みたいだが・・・。)この子供、自分と叔父の家の家格がちゃんと分かって賢い上、自分で卵売り込みに来るほど押しが強いし、出世してわが家名をあげるかもしれん。よし。その話乗った!君は今日から松平を名乗りなさい!」

ここまで露骨な会話があったかは知りませんが、売り込みはあったみたいですなあ。ともあれカッコウ(大河内三十郎)はモズ(松平家)の養子に入り、竹千代君の小姓になりました。 竹千代君が将軍になるかは微妙な時期もありましたが、なんとか成功。これは三代将軍家光と側近の老中松平信綱の物語です。つまりこのカッコウっ子、政治の天才で幕藩体制を確立した「知恵伊豆」です。島原の乱を鎮圧したことでも有名。

モズ叔父さんの名前は松平正綱といいます。松平氏はたくさんいるので、出身の地名を取って長沢松平氏と呼ばれていたのですが、あまりに信綱が有名だったので、その後は大河内松平氏と呼ばれる家になるのです。ねえモズさん、これで良かったの? まあ雀が心配することじゃないけどさ。(家格の高い家が、家格は低いが有能な若者を養子にするのは、よくあった話です。)

そののち明治時代に、大河内松平氏は、苗字を大河内に戻します。時はすでに徳川氏の時代じゃないので、徳川家の連枝である松平の苗字だと、いろいろあったんでしょうね。 (同様の例、大給松平家・松平 乗謨→大給恒 に改名。)

その子孫として明治11年に生まれたのが大河内正敏さんです。東京帝国大学工学部造兵学科卒業。

造兵学科って楽しそうだなぁ。その後精密工学課に改編されたそうだから、特化した機械工学科みたいな感じだったんでしょうね。兵器造りって、倫理的にどうかはさておけば、エンジニアなら絶対楽しいと思うね。限界の性能を追求するため、予算はある程度無視できるし・・・オスプレイとか機構的には革新的じゃん。 まあその分無理してるから、墜落する危険性高いけどさ・・・当時は富国強兵の時代ですから、むしろ褒められる選択肢だったわけね。

閑話休題。その後帝大の教授になった彼は、やがて理化学研究所の所長になり、研究成果の事業化を目的に理化学興業株式会社とかいろいろ会社を興し、新興財閥「理研コンツェルン」の総裁になります。ここで稼いだ金で広い分野の研究者たちの自由な研究を支え、理研は研究者の楽園とも言われました。 有名人だけあげても、鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、長岡半太郎、嵯峨根遼吉、池田菊苗、本多光太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄、菊池正士などなど。

が、戦後の大学紛争で「産学共同体粉砕!」と粉砕され・・・ 筆が滑りました。理研は戦前、仁科研究室など原爆研究の中心だったこともあり、大河内所長は戦争協力者として戦犯指定+公職追放。理研グループは解体されました。

そういえば、理研の建築工事の多くを受けていたのが、田中土建工業。社長は田中角栄。

えーと、碑に戻ると「正三位勲二等 工学博士」と誇らしげに書いてありましたから、少なくとも戦前に建てられた碑ですね。戦後公職追放されてからでは、とても建てられないし。

 

 

 

 

西尾の文化財(17) 養寿寺

Wikipediaに項目が建てられている有名寺なのかな・・・

地元では「矢田のおかげん」で有名です。おかげん って何だべ?と思っていましたが、wikiの解説により分かりました。

旧暦2月15日頃(3月の最終土・日曜日)に行われる涅槃会では、読経に合わせて笙・笛・太鼓などの管弦が奏される。

おかげん=御管弦なのですな。 えーと、このお寺の文化財は天和3年(1683)建立の鐘楼門(市文)

空が、青いな〜秋だな〜

まだありますぞ、非公開ですけど。室町時代の雲版(県文)、彰空宗永の書写になる『太子伝』(市文)、高麗時代の観音菩薩像(県文)、地蔵菩薩像(県文)、家康の裏書のある天満宮御影(市文)、薬師如来(市文)、釈迦一尊(市文)、弥陀三尊(市文)、蓮鷺(市文)、寒山拾得(市文) 西尾市のHPより。

写真奥に見える本堂は嘉永4年(1851)だし、山門は元禄12年(1699)建立。立派に見える本堂だけど、実は裏から鉄骨でサポートしている状態。そろそろ大規模な補修が必要な時期に来てるんだけど・・・ともあれ、下が山門の写真ね。 

段差があって、立派な門構えですね。実はこれ、碧海台地の端に位置するからできる芸当。だから台地の下から見ると高低差が生じてるんだな。反対側からは全然高低差ないんだけどね。 地理院地図に、写真を撮った方向を記入したのが下。

矢印左下の逆凹形の池の標示に注意!

寺の縁起は以下の通り。

大同元年(806)に勤操阿闍梨がこの地を訪れ、当時海であった東方の砂浜に霊亀が休み、その背に青衣八臂の弁財天が座っているのを見て、「この地こそ仏法の繁栄養寿寺写真地」と悟り、堂を建立したと伝えられます。

人がいたので写真を撮ってこなかったのが残念だけど、上の地図の矢印の左下に「池」があって、その中島に弁財天が祭られています。おそらく縁起にある亀に載った弁天さんだろうね。

10月11日写真を撮ってきましたので追加します。

弁天サマ 提灯の「八田」に注目。矢田じゃないのね。
門からの位置関係はこんな感じ

弁財天にも、境内の地蔵堂にも地元のおばあさんが座って休んでいるし、他にも孫を連れたお年寄り、犬散歩途中のおじさん、隣の児童公園で遊ぶ複数の親子連れなど、このお寺はかなり地元の人に親しまれ、オアシスのように利用されているようです。本来あるべき姿として、大変よろしいかと存じます。「オマエに言われてもな」ですが、いいもんです。

まあ敷地も広いわけですが、そのわけは・・・

文明年中(1469~67)に徳川家康の大伯母、吉良義安の夫人である矢田姫(やたひめ)が当寺に埋葬され、その故を以って慶長7年(1602)に家康より36石の朱印地を賜ったといいます

と 西尾市のHPには書いてあるんだが、家康の大伯母(祖父母の姉)だと、吉良義安夫人ではなく、一代前の吉良持広夫人じゃないかなあ? 吉良義安の妻で、家康の伯母に当たる人の墓は吉良の堯雲寺にもあるんですもの。訪問記はこちらです。

あるいは・・・義安は持広の家に養子に入ったけど、普通は持広に実の娘がいれば、養子はその娘と結婚するのが普通ですわな。(家康からみると「大伯母の娘」)

だけどその娘は不幸に若くして亡くなり養寿寺に葬られた。若くして亡くなったので「姫」と伝承され、、「大伯母の娘」がいつしか「大伯母」って伝わっちゃったと。 で、その後、義安は家康の伯母の俊継尼と再婚した・・・と。まあ想像にすぎませんが。この時代、女性は「誰々の娘」としか書かれないもんねえ。

追記:平野明夫「三河 松平一族」 洋泉社MC新書 によると、(このお寺に葬られている)「養寿寺玉林良久大禅尼」は、吉良家老臣の富永氏に嫁いだ信忠の一代前「長忠」の娘の法号だそうです。 (鶴寿会郷土史研究会「矢田姫を追う」(平成四年))

ち、ちなみに、義安の妻の墓はもう一つ、吉良の華蔵寺にもあります。

華蔵寺の看板

こちらは慶長年間没となっているので、俊継尼の墓その2だと思いますが・・・(偉い人の墓は、複数あることもあります!)