西尾城天守閣について (マニア向け?)

本日、岩瀬文庫で開かれた 西尾市歴史講演会「独創性に溢れた西尾城の天守と櫓」という講演を聞いてきました。講師は広島大学大学院の三浦正幸氏。

自分が聴講できたことを棚に上げてですが、昨今の城ブームの折、城郭建築の専門家の講演(無料)。参加希望者が多くなるのは十分予測できたはず。西尾市の歴史を知らしめるよいイベントなのに定員はたったの70名。聴講は抽選とは。担当者のセンスの悪さダメダメですな。

講演は非常に面白く、城郭マニアなもので、ずっとメモ取りっぱなしでしたけど。

さて西尾城の天守閣がどのようなものだったか?前提条件は次の通り。

  • 西尾城の天守閣は、写真が残っておらず、内部の寸法と天守閣の高さを記した記録と、 数種類の絵図が残るだけ。
  • 絵図では、階層はあるものは三重、あるものは四重
  • 絵図では、天守の色があるものは白色(漆喰)、あるものは黒色(板張り)
  • 絵図では、天守の形状があるものは層塔型、あるものは望楼型

混乱の極み。さて、このような状態から、専門家はどのように天守の復元をしていくのでしょうか・・・?その時代の天守閣を見つつ、かっこよさげに適当にやるんかな と思ってましたが、ちゃんと理屈で考えていくのですね。言われてみれば、学問なので当然ではありますが。

なお、私が理解した内容ですので、一部誤解しているかもしれません。市の関係部局等で、そのうちきちんと整理してまとめられると思います。この内容ならお金出して買ってもいいす。

  • 当時、絵図を書くとき写実的に書くという習慣がないので、色が白か黒かは、たぶん黒。というのは、黒(板張り)だと絵として余計に線を引いて、色を付ける必要があり面倒。詳細は必要なしとして塗らなかったと考えられる。
  • 西尾城の天守は、石垣を見ただけだとわからないのだが、実際には1階の大きさが9間×7間と巨大なもの。どのくらいの規模かと言うと、日本に天守が現存する城は12城あるが、もし西尾城天守閣が残っていたとすると、大きさで6番目と巨大なもの
  • ちなみに天守閣の大きさ1番は姫路城、2番は松江城、3番以降は松本城、犬山城、松山城、(西尾城)と続くが、3番以降はそれほど大きさに差はない。
  • 西尾城の領主は、豊臣政権下で田中吉政が岡崎10万石(西尾は支城)出入り、徳川政権初期には譜代の2万〜3万石くらいの譜代大名が入っていた。最後が大給松平6万石。
  • 2~6万石レベルの大名が持てる天守ではない。
  • 西尾城自体、天守閣、3重櫓2、二重櫓11と櫓が林立する城で、通常であれば、30万石クラスの大名の城。
  • 三河時代の徳川家支配下では、城に天守閣なんてなかった。その後、豊臣政権下の武将はせっせと天守や櫓を建てた。三河を治めた武将達は、人によりいろいろ好みがあった。岡崎&西尾城主の田中吉政は二重櫓好き、池田輝政(豊橋・吉田城→姫路城)は三重櫓好き、堀尾吉晴(浜松城→松江城)はでかい天守閣が好き。浜松城の天守は、今建ってる再建天守の倍の規模だった。
  • てなことで、田中氏時代に天守と櫓群を建てたはず。その時の天守の規模が、「1階の大きさが9間×7間で、三重(屋根が三層)の天守」だっただろう。
  • 元和元年(1615)に武家諸法度ができてからは、運用として城が持てるのは5万石くらいから、天守閣が持てるのが10万石格くらいからになった。ただし、武家諸法度ができる前に城と天守があれば、既成事実として、同規模のものを維持するのが半ば義務だった。
  • (ここで天守の再現を進める)
  • 内部4階の寸法と天守閣の高さから次のことが言える。一階と二階の規則的な逓減率と比較して、二階と三階では急激な逓減率があり、三階と四階は同じ広さ。 つまり、 二階までは層塔でできており、その上に大屋根が載り、大屋根の上に四階がある。そして四階と同サイズの三階が大屋根内部に屋根裏部屋としてあることを示している。三重四階の層塔望楼型と呼べる、変則的な天守形状である。
  • 屋根のかけ方は、上記の推測でほぼ百パーセント正しいと思われる。
  • その形に合致する絵図はただ一つ。それはわりかし丁寧にかかれており、信ぴょう性は高いと思われる。絵図の通り、二階に破風が二つ付く。
  • 天守内部の柱の配置もほぼ決まる。天守の一階は座敷の四方に入側をめぐらす形(西尾城の場合、一階は土間だがサイズは座敷として考えればよい。)。入側の幅を機能面から他の天守構造を参考に常識的なサイズとし、座敷のサイズが畳敷であること、さらに梁の限界長さを基本に考えると、柱の配置(構造)も同定でき、ほぼ百パーセント正しいと思われる。
  • 一方、記録にある「四階建て天守で、高さ52尺」というのは建物として非常に低い。一階を土間にして、三階を(望楼型で)屋根裏部屋にするという手法を駆使してギリギリまで高さを抑えないと、この高さで天守を建てることはできない。高さの低い天守は、予算を抑えるため。
  • となると、元和元年までには初代の天守があった。その後武家諸法度後に入城した譜代大名のうち、誰かが田中吉政が建てた「1階の大きさが9間×7間で、三重(屋根が三層)の天守」の条件を満たしたうえ、出来るだけ安くあがるよう、高さを抑えた天守として望楼型を含んだ天守を再建し、それが後代まで残ったと考えるべき。
  • ちなみに、(全層)層塔型天守は慶長9年(1604)の今治城が最初で、まあ関ケ原の合戦のあたりで確立したもの。
  • それ以前は望楼型だったが、これは石垣積みの技術が未熟だったため。天守下の石垣をきちっと矩形に詰むことができず、石垣がひずんだ形になってしまう。そのひずみにあわせて建物と大屋根を建造し、そのうえに階下とは縁切りされた望楼を載せていた。(望楼とそれ以下の階が分離してる。)
  • 石垣技術の発展があってきちんとした矩形の石垣が組めるようになって、縁切りされた望楼形式ではなく(望楼型は構造上弱いはずなので・・・)上下が繋がっている層塔型にできるようになた。この形であれば設計図から必要部材長がきちんと算出でき(望楼型はひずみがあるので、模型を造らないと部材の必要長さ等が算出できない)合理的な設計法になる。

あっという間の1時間半だった(櫓については割愛)。説明が言葉足らずなうえ、少し城郭建築の知識がないとわからない書き方ですいません。(wikiとかで調べてください)

にしても、西尾城の天守閣が非常に巨大なものであったことは驚きでした。復元された櫓見ても、小さいし、大した城じゃないよな としか思ってなかったので。

本丸丑寅櫓(復元)

ちなみに、日本一小さい三層櫓だそうです。にしても三層櫓ある時点で、当時の城としてはすごいことらしいですが。

 

しかしまあ、「いったん巨大な施設を造ってしまうと、あとで維持に苦しむよ」というのは、現代にも通じる話ではありまする・・・ 人間、進歩しねぇな。

 

 

西尾の文化財(12) 岡山周辺 【下】

昨日の上編の続きです。

岡山全体図
追加 地理院地図(標高図) 若山古墳のある山は割愛。

④堯雲寺

堯雲寺

堯雲寺

住職のいないお寺です。建物は普通の民家みたいですけど、注意してみると軒先に鐘がぶら下がっているので、お寺かな?とわかります。

なんの変哲もないお寺ですけど、ここには、徳川家康の伯母である俊継尼の菩提寺で、その墓が残っているのです。そんな人が眠っている墓所なのに、無住とは・・・

お墓

上の系図で、□で囲った人ですね。寺の縁起看板によると・・・義安が駿河で亡くなった後※、義定を連れて吉良に帰ってきた。家康はこれを知り、伯母の俊継尼と義定のために瀬戸に200石を与え吉良家を再興させたそうです。「堯雲院殿俊継貞英大姉」

※統一吉良家の当主だったが、今川氏と仲が悪く、今川義元に人質として駿河に連れていかれた。家は弟義昭が継ぐが、徳川家康との戦いに敗れ吉良家はいったん断絶します。なお、この時代の吉良氏は、同族の今川氏とすごく近い親戚関係になっています(今川氏が主君筋)。その勢いで徳川氏ともっと婚姻関係を結んでおけば(無理かな)、もっと発展したかも・・・ま、家柄的には松平家より「格上」なので無理な話かもしれません。あるいはそういう名門意識が、赤穂事件には悪い方向に働いたかもしれません。が。それはのちの話。

本堂裏の感じとか、鎌倉の古刹にも似て?、磨けば風情ある地だと思いますが、惜しい・・・

本堂うら

竹藪の中に小道があり、徒歩なら昨日紹介した岡山八幡宮へ抜けることもできます。あるいは八幡宮の神宮寺だったのかもしれません。

竹藪の道

⑤岡山陣屋跡

さて、先ほど述べた「俊継尼と義定のために与えられた瀬戸200石」ですが、これを統治するため「岡山陣屋」が置かれました(当初は館があったようです)。旗本吉良氏の領地管理の要ですな。今は門構えが残るだけ(再建でしょう)。また、このあたりの地名は「殿町」です。

岡山陣屋跡

義定は瀬戸に200石、鳥羽に300石、合わせて500石与えられたそうです。鳥羽って、西幡豆の鳥羽ですかね?(西尾市内です) その後の吉良氏は息子の義弥の代に3000石+高家職、さらに孫の義冬の時代に4000石となりました。そのあとはね・・・

⑥西林寺

道路を渡って瀬戸にはいります。

西林寺

このお寺も無住ですね。門前にシイの木が残っています。根回り6mほど。この辺りはスギやシイが生い茂る林になっており、このシイが西端に当たるため、西林寺なんだそうな。 この木は市の天然記念物です。

大椎

このお寺の境内(というか瀬門神社の境内なのかしら?)には、南極探検家である白瀬矗(ノブ)氏のお墓があります。

お墓

彼は秋田県にかほ市の出身で、西尾市と直接の関係はありません。南極探検(政府援助が一切ない民間の探検)のあと、莫大な借金を抱えた彼は、全国(海外も含め)行脚して講演を行い借金を返し、豊田市で死去。奥さんは娘さんを連れて瀬戸へ移住し死去。娘さんは両親の墓を西林寺に埋葬して東京へ移住されたそうです。

墓域には、いろいろなものが展示してあります。南極観測船「しらせ」のスクリューの一部(チタン合金製だそうです)、西尾市教育委員会から「吉良の子」らへあてた訓告看板。白瀬氏の南極探検で待機したオーストラリアウラーラ市の看板(の複製)など。

オーストラリアの看板
南極観測船「しらせ」スクリュー(一枚)
吉良の子らへ

白瀬氏の南極探検は資金難で、南極に向かうために購入した開南丸は、わずか200トンの中古帆船で、それに18馬力のエンジンをつけただけだったそうな。現在の200トンクラスの船につけるエンジンは最低でも200馬力はあるそうで、これはほぼ帆船ですな。それで南極まで行っちまうんだからすごいというか、恐ろしいというか。  同じ時期に南極を目指した人たちが、こんな船で・・・と驚嘆した(「ジャップはクレイジーだ」が正解だと思うが)とか、無理じゃね?と判断した政府は資金を出さなかったとか、まあ成功したからあれですけど、確かにクレイジーですなぁ。

が、この貧乏南極探検において、一人の死者も出さなかったのは、南極点にははるかに及ばなかったとはいえ、特筆すべき偉業です。

⑦瀬門神社

不思議な名前ですなぁ。 寺の由緒はよくわかっていませんが、源頼朝が、奈良東大寺の再建のため上洛するにあたり参拝、本殿を修復した そうです。その後、徳川家康が、近くの東条城攻略のため(城主は先ほど出てきた吉良義昭ね)戦勝祈願した とか結構有名人の名前がちらほら。

秋の祭礼で馬駆けをやるそうで、馬具が県の文化財に指定されているそうです。

あと、この神社はどうも弓道に縁が深いようです。拝殿には、的中(弓道で射った矢がすべて的に命中すること)したときに奉納した「金的中」の額がいっぱい奉納されていましたし、さびれていましたが、的を置く的場がありますもの。

金的中
的場
神社から見た城山(矢印・東条城)

てな感じで、岡山探訪を終わります。

西側からみた「岡山」丘陵