西尾の文化財(12) 岡山周辺 【上】

今日は、以前に紹介した、華蔵寺と花岳寺のある「岡山」周辺の文化財を紹介します。たくさんあるので、西側から2回にわけて紹介。まずは、全体図を表示します。

岡山全体図

上の写真で緑色の部分が、「岡山」です。西側に矢作古川が流れています。右下の丘は、普通「岡山」には含まないと思いますが、近接しているので合わせて紹介します。

①「若宮第三古墳」の石碑

石碑

岡山の一番西側の頂近くに石碑があります。どこに古墳があるのかわかりませんが・・・。ちなみに西尾市史によると、この地は明治42年に、下横須賀の加藤氏が山を開墾し、果樹園を造り、稲荷社を移築し、参道に吉野桜を植え、岡山江陵園を開園し一般開放したそうです。丘陵の頂部に小山(若宮第一号墳)があったそうで・・・

市史に出てくる第一号墳と、石碑に書かれた第三古墳の関連は、よくわかりませんねぇ。

向こうのほうに、社っぽいものも見えますが、ここから先は私有地ですから、立ち入りはできません。 それにしても、ここは、竹さえなければ、江(川)を眺める丘として、さぞいい場所だったでしょうね。いまやこの丘陵には竹がびっちり生えています。 道路(南北に県道が横断)を超えて東側の丘陵のほうは、木もたくさん生えていていい感じがしますな。

②華蔵寺と花岳寺

華蔵寺
花岳寺

この有名な二寺については、以前紹介した記事をご覧ください。 華蔵寺花岳寺

③岡山八幡宮・八幡山古墳

地図によれば山の頂部にあるのですが、表示がなく、どこからアプローチすればよいのかわからない・・・結局発見したのは、花岳寺からもう少し東にある正覚寺の西側の道を奥へ進めばよいようです。(「黄金堤」という標識があったかも)

正覚寺 門構えがなかなか立派です。寺の西側(左)の道を奥へ

この道、結構急ですが。 グラウンドが見えてきたらもうすぐです。こんな隠れグラウンド誰が使うんだべ?と思いきや、日曜日の午前中なので、地元の子供たちがソフトやってました。

そういやあ、昔は有無を言わさず駆り出されたなぁ・・・貴重な休日の朝寝の時間を、オマエ(近所のおっさん達)は何の権利があって犯すんだ と反感持ってましたっけ。怖くて言えなかったけどな。

閑話休題。急な階段でも、舗装道路でも好きな道をどうぞ・・・八幡宮の右手後ろに、古墳の看板が出ています。

岡山八幡宮
看板
古墳

八幡山古墳は、愛知県の指定史跡になっています。看板によれば、前方後円墳で、長さ66mだそうです。ですが、そもそも前方後円墳だと確認されたのが平成5年と新しく、発掘調査もされていないので、細かいことはよくわかっていないとのこと。それでも、古墳の形式から、古墳時代前期とみられるそうです。岡山の丘陵には、この八幡山古墳に引き続き、若宮第一号墳、善光寺沢南古墳が築かれている そうですから、それなりに有力者の墓だったのでしょうが、さて?

 

続編は、こちらです。

 

 

 

西尾の文化財(11)今川氏発祥の地+伝・義元首塚

西尾中学校の校庭前に、今川氏発祥の地の碑があります。今川氏は、「桶狭間の合戦」「今川義元」で有名な戦国大名ですが、もともと吉良氏の分家みたいな存在で、この地から発展したんですね。

今川氏発祥の地
広場

この辺りは「今川町」と言われ、今川氏発祥の地(今川荘)とされています。元々は吉良氏の祖である吉良(足利)長氏の隠居領として与えられた土地を、次男に与えたのが始まりとか。 ま、長氏の隠居所は、現西野町小学校の西「丸山」の地にある丸山御所じゃないの?という突っ込みもあるんですけど。

この今川氏発祥の地は、この石碑と中央にお墓があるだけで、寂しいものです。墓は今川了俊のものとされていますが、了俊とは誰でしょう?

駿河守護になった今川範氏の弟で、南北朝の時代に北朝(室町幕府)の九州探題として九州に赴任。永らく南朝の根拠地だった九州を幕府勢力として統一したのだけれど、独自の勢力や朝鮮との独自外交ルートを持つ危険性、讒言などから、統一の直後解任され、遠州半分の守護に左遷されました。 歌人としても有名でした。

しかし、そんな有名人の墓が、お寺でもないこんなところに、ポツンとあるんでしょうね?正確には後世に造られた供養塔のようです。

静岡県袋井市(遠州)にある海蔵寺は、了俊が開基したと伝えられていますが、この寺にも了俊の墓があります。こちらにあるのはむしろ自然なのですが、その墓も供養塔のようで、後の時代(1749年)の建立だとか。

wikiに項目が開設されている有名人なのに、正確な墓の位置がわからない。不自然と言えば不自然ですねぇ。  南北朝時代の北朝の武将、しかも将軍家から反逆を疑われた となると、お墓もないものですかねぇ?

今川了俊の墓(供養塔)

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市内には、もう一つ今川氏ゆかりと伝わるものがあります。 駒場町の東向寺に、今川義元の首塚 なるものが伝えられているのです。(塚は文化財指定されていません)

浄土宗西山深草派 東向寺

このお寺には、平安時代後期と伝えられる 観音菩薩立像(市指定文化財)もあります。

さて、寺院内に塚の案内看板はありません。どこかな・・・本堂の仏さまに「拝見させてもらいますね〜」とお声がけ(お参り)して、捜索しましょ。まあ、山側に祭るのが自然だわね。

はい。本堂向かって右手の山側にこのような階段があります。それを登っていくとありました。

伝 今川義元首塚
説明書き(看板表側は風雨に晒されて読めないが、裏側に説明文が貼ってあります)

桶狭間の戦いで、大将今川義元の首はちょん切られ、首は織田軍に持ち去られました。残った胴体は今川の家臣が回収し豊川市にある大聖寺に葬りました(胴塚)。首は戦国のならいとして信長の見分後街道に晒されました。

それを今川方の武将・鳴海城主岡部元信が、城の開城と引き換えに首の返却を受け、駿河へ持ち帰り埋葬したと言われています(墓所は静岡市葵区の臨済寺)

が、お寺にある説明によると、このお寺の四世住職の得順上人が今川義元の伯父に当たる縁で、駿河へ帰る途上に当たるこのお寺に、義元の首(首塚)と戦死者を祀ったそうです。

胴体も傷みが激しく豊川市で葬ったぐらいですから、晒された首も相当傷んでいたでしょう。そこで道中の途中で葬ったという説も、もっともだなあと思います。 戦国時代は、有力大名と言えど生きるのも大変ですし、死んでからもいろいろ大変ですね。 なかなか一回の合戦で大将の首が取られて総崩れ という合戦はないでしょうけど。

(10月28日補足、東向寺分を加筆)