松代大本営

長野市は松代にある、松代大本営跡に行ってきました。某アニメファン(コア)には、ああ、あの話の元ネタね って知られている・・・のかな。

松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。

このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されている。

wiki 松代大本営跡

2000年9月13日に発生した「セカンドインパクト」の混乱の中、同年9月20日には新型爆弾が投下され、首都東京は壊滅した。そのため、日本臨時政府は東京の復興を断念し、2001年に暫定的な首都として長野県松本市を第2新東京市と改称して遷都した(第一次遷都計画)。
当初の脚本では、長野県長野市松代町が予定されており、作中の第2新東京市の眺望は、姨捨山付近(姨捨駅近辺、長野県)から長野市方面(松代含む)の眺望・地形と一致するが、雑誌『エヴァンゲリオン・クロニクル』では「松代に新首都を建設する計画もあったが最終的に松本になった」とあり、設定的には松本に決着した。松代は起動実験場として会話中に登場する。

第2新東京市

太平洋戦争末期、連合国との戦いに敗れつつあった大日本帝国は、最後の決戦として、日本本土に敵を迎え撃つ、いわゆる「本土決戦(決号作戦)」を計画していました。

そのための総司令部として、ここに大規模な地下施設を建設したのです。上記jの記載にあるように、象山、舞鶴山、皆神山の三か所に造られました。 

ちなみに、象山のふもとには佐久間象山の家がありました。(幕末の松代藩士、兵学者・朱子学者)実際にどんなすごい人なのか、僕は知らない・・・けど、割と尊敬している「勝海舟」。この人が象山の弟子なのね。それに「海舟」って本名じゃなく号なのだけど、海舟が書斎に掛けてた「海舟書屋」という額、実は象山が書いたものなんだよね。だからきっとすごい人なんでしょう。

あと皆神山ってのは、標高600m程度の小山なれど火山なんです。粘性の高いマグマなので、溶岩ドームのこんもりした山容が周囲の山並みと異なっており、それもあってか「世界最大のピラミット」という珍説もあるそうで。

閑話休題。象山地下壕は大本営?と政府各省。舞鶴山地下壕(下の地図で「気象庁地震観測庶」とあるあたり)には御座所(天皇と皇族)、皆神山(地図右下の丸っこい山のどこか)地下壕は、掘ってみたら地質が悪く、倉庫とされたようです。→周りの山と山体が違うし火山だし、最初から避けるべき場所って分かりそうな気もするけど。

google map 地形

地下壕が見学できるのは象山だけ。(無料です)

こんななんの変哲もない田舎の山すそに、巨大な坑道からなる地下施設が掘られました・・・20本の本坑道とその連絡用横坑道が5本ほど。計画総延長5.8kmだそう。

見学できるのはそのうち500mほどです。

 たぶん、連絡用横坑道。

たぶん本坑道。ここが、例えば「内務省」予定地だったりたわけか・・・

もらった資料によると、この坑道は昭和19年11月11日~昭和20年8月15日()終戦日)まで突貫工事で掘られ、全行程の八割が完成したそうです。

でもねえ、半藤一利の「聖断」には以下のような記述があるんですよね。

陸軍は三月二十三日に「陸亜密第二四七四号」という秘密命令を発し、長野県松代の白鳥山の地下に「仮皇居」を建造する工事をはじめていた。そこに天皇・皇后・皇太子らの皇子、秩父・高松・三笠の三宮家、そして貞明皇太后を移し、まず安全にしておいた上で、最後の一兵になるまでの本土決戦を挑もうという。陸軍は、おのれの意志を貫徹するため、いわゆる”玉”を奪う決意であった。

(昭和二十年)五月も押しつまったある日、梅津参謀総長は天皇に戦局を奏上した折に、思い切ったように徹底抗戦のための大本営の松代移転を強く願いでた。天皇は、しかし、陸軍の意のままにならなかった。

「わたくしは国民とともに、この東京で苦痛を分かちたい」

天皇のこの悲痛な意志を耳にしては、梅津参謀総長もそれ以上は押せなかった。総長の退出したあと天皇の怒りはふきだした。

「わたくしは、行かない」

木戸内大臣は、天皇がこれほどまでに怒ったのをそれまで見たこともなかった。

・・・こうして天皇と鈴木首相は、国家の存亡を東京にくくりつけたのである。

「白鳥山」って舞鶴山の間違いじゃね? と突っ込みたくなるけれど、半藤一利の本ですから、かなり信憑性は高いと思うんですよね。僕が疑問に感じたのは

天皇(陸海軍のトップである大元帥)が明確に玉座と大本営(&政府)の松代移転を拒絶したのに、なぜ壕の建設工事は終戦の日まで続けられれたのってこと。これこそ陸軍が忌み嫌った「統帥権の独立」を犯す重大な違法行為だと思うんだけど。

統帥権(とうすいけん)とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)のことをいう。
大日本帝国憲法第11条(明治憲法)で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」として定められていた権能で天皇大権の一つとされた。

wiki 統帥権

でもこの違法に罰せられた軍責任者って、いないんですよね。

本土決戦の準備も、wikiでざっと検索してみてもなかなかひどい。・・・

連合国軍の本土上陸侵攻を遅延させ、その間に本土の作戦準備態勢を確立するため「前縁地帯」に連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退する

→沖縄戦の悲劇

本土防衛の総指揮を執っていた防衛総司令部を鈴鹿山脈を境界として第1総軍・第2総軍に分割。防衛総司令部の隷下にあった東部軍・中部軍・西部軍、及び朝鮮軍を各方面軍とし軍管区を新設した。その目的は、連合軍上陸の際に各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたること。部隊の後退、持久を認めず、 

男性は15歳以上60歳以下(当時の男子平均寿命46.9歳)、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって国民義勇戦闘隊員に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することが可能となる。

→組合わせると一億玉砕の完遂。鉄血勤皇隊やひめゆり部隊の結成根拠?

→第二総軍の司令部は広島市に置かれたので、原爆により第2総軍は総司令部以下壊滅的な被害を受けたそうな。 それ狙って原発一発目は広島だったのかな?

こんなんじゃ本土決戦無理。てか、やらなくて良かったですね。やったら・・・たぶん村上龍の「五分後の世界」で描かれたような世界になってたんでしょうね。ま、あの本、筆者の偏った思考が入ってる気がして、好きになれないけど。 

『五分後の世界』(ごふんごのせかい)は、村上龍の小説。幻冬舎から1994年3月に刊行された。
第二次世界大戦から現代に至るまで米軍を中心とする連合軍と戦争を継続している平行世界の日本を描くことで、現代日本に対する強烈なメッセージを秘めた作品である。村上龍はあとがきにおいて「最高のものになった」としているように、作者の代表的な「看板作品」である。

「もう一つの日本」は地下に建設され、人口はたった26万人に激減していたが、第二次世界大戦終結後も民族の誇りを失わず、駐留している連合国軍を相手にゲリラ戦を繰り広げていた……。

wiki 五分後の世界

もう一つ小ネタだけど、「天皇がもし松代へ動座(移動)する事態となったとき」に備え、実際に「マルゴ車」という装甲車仕様の御料車が造られたのです(日野自動車)。概要はwikiにあります

鉄道では空襲等に対し危険であり、車では道路状態が悪い(当時は舗装道路が完備されていなかった)ため、安全性が高く機動力のある交通手段を考えねばならなかった。1944年の段階では天皇・皇后の動座のための装甲車が2台準備されていたが、居住性、走行性能共に高いものではなく、1945年には九四式軽装甲車の内装を特注品に変更した車両が新造されることになった。・・・
新造された車両は天皇を守る近衛師団の騎兵連隊に送られ、赤芝師団長により「マルゴ車」と名付けられた。・・・

松代大本営跡 動座用車両

詳しく知りたい人は、 鈴木孝「名作・迷作エンジン図鑑」25章を読んでください。「戦車工場で緊急開発された御料車を松代に追う」という記事が楽しめます。

「どうなって家康」③松平家隆盛に絡んだ伊勢氏

前回までに、三代目信光まで話をしました。 信光は京都にいる実力者(室町幕府政所執事・伊勢貞親)の被官として勢力を伸ばしました。あとで出てくるので、伊勢貞親という名前は覚えておいてください。

政所とは・・・室町幕府の財政と領地に関する訴訟を掌る職。執事(政所の長官)は当初二階堂氏や京極氏(佐々木氏流)等が任じられていたが天授5年/康暦元年(1379年)の伊勢貞継の任命以後伊勢氏の世襲となった。

wiki 政所

信光は岩津城を拠点としたので岩津松平家(岩津宗家)と呼びます。 じゃあ四代目は、信光の嫡子で岩津松平家を継いだ松平親長なのでしょうか?  じつは、さにあらず。 なのでございます。

 松平親長は長年、京都で金融活動に従事しており、宗家を継いでも京都で活動していました。時はまさに世紀末・・・でありますから、いつも不在の宗家より、在地している一族の有力者がだんだん力をつけてまいります。それが、信光の三男・親忠です。安祥(安城)城を拠点としたので、安城松平家と言いますが、この家が宗家化してまいります。ってことで、四代目は安城松平家の親忠です。

親忠の代には、京都で活動する岩津宗家の親長にかわって、安城家が松平一族の惣領的地位を占めていたとみなされ、親忠が没した文亀元(1501)年の法要では、一族が結束して連判状を作成し、安城家の菩提寺である大樹寺(岡崎市)を守護していくことをちかっている。

画像とも 三鬼清一郎編「愛知県の歴史」より引用  

こういう文書が後世に残っているって、考えてみるとすごいことですよね・・・

さて、安城松平家が名実ともに宗家となったのは、永正五年(1508)に遠江を制圧した駿河の今川氏が西三河に進攻してきたからです。戦乱は数年に及び、岩津城は落城、岩津松平氏は滅亡してしまいました。といっても、親長くんは京都で生きていたとする説もあるのですが。

一方、この戦で名を挙げたのが、親忠の跡を継いだ安城松平の長親くん。この人が五代目になります。

永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞率いる今川軍は大樹寺を本陣として岩津城を攻めた(永正三河の乱)。・・・岩津への救援軍として安祥城の松平長親が井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶりに手を焼いて伊勢宗瑞の本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後を襲われることを懸念して、今川軍は撤退したという。)もっとも、今川軍の主要攻撃目標は嫡流である岩津松平家であったため、岩津落城を果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。この合戦の結果、岩津松平家は著しく衰退したと考えられる。

しかし、永正の三河の乱の後も岩津親長はずっと在京していたと見られ、永正17年(1520年)3月9日までは生存が確認されるとする見方もある。

wiki 岩津松平家

いや、そんなかっこいい話じゃないとする説もあります。安城松平家の去就は同時代史料からは明らかではないけれど、吉良氏(今川氏宗家)とかかわりがあったから生き延びられたんだ と。

家督を相続した信忠(注・六代目です)の「信」の字は吉良義信の偏諱とみられる。三河吉良氏の本領吉良荘と所領を接する安城松平氏は、吉良氏の影響下に置かれることで、今川氏の爪牙にかかることなく、家を存続できたものと思われる。

新編 西尾市史 通史編1 より引用

ま、まあ、生き延びた方が勝ち なんです!

さて、ここで出てきた、今川氏親(駿河国主)名代の伊勢宗瑞。氏親の叔父にあたるのですが、正式名は伊勢新九郎盛時。出家して早雲庵宗瑞と号します。後世「北条早雲」と呼ばれる人です。この時は今川氏の客将というような立場でした。

さて、この北条早雲なり伊勢盛時、最初に出てきた伊勢貞親と関係あるのでしょうか?実はあるんです。 つまり、「松平家が三河で台頭し、家康につながる支流/安城家が宗家になれた」のは、ともに伊勢氏が絡んでいるんですな。縁は異なものというか。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、貞親の同族備中伊勢氏の当主で貞親と共に幕政に関与した伊勢盛定の嫡男(一説には盛定の妻は貞親の姉妹であり、貞親と盛時は伯父と甥の関係であるともいう)とされ、貞親の推挙によって義視に仕えたと言われている。

また徳川将軍家の先祖にあたる三河の国人領主松平氏宗家第3代松平信光は、貞親の被官であり、貞親の命で額田郡一揆の平定にあたるなどして勢力を伸ばし、のちに戦国大名化していったとされる。

wiki 伊勢貞親

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていた。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉(または妹)にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられる。文明5年(1473年)に北川殿は龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

wiki 北条早雲

こ松平宗家は五代長親、六代信忠、そのあと七代清康、八代信忠、九代家康と続いていくわけですが、その道筋は決して順調なものではありませんでした。それを見てきた長命の五代長親くんに語ってほしいものです。なかなか数奇な余生?をおくってらっしゃる。

隠退後、入道し道閲と号した長親は、なおも信忠を後見・補佐したが、信忠は力量乏しい上に一門衆・家臣団からの信望が薄く安祥松平家が解体の危機に瀕した。そのため、家老・酒井忠尚(将監)の嘆願により道閲・信忠父子は、信忠の隠居と信忠の嫡子清康への家督継承を受け入れた。
 晩年は福釜・桜井・東条・藤井と新たに分家を輩出させた息子たちの中で、とりわけ桜井家の信定を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ広忠(長親の曾孫)が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。このために家臣団の失望を招いたという。
 後には広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(長親から見れば玄孫にあたる)に自分や清康と同じ竹千代と命名するように命じている。後の徳川家康である。しかし、長親の溺愛した信定は広忠の代まで家督に固執して松平氏一族とその家臣団に内紛を引き起こし、結果的には少年時代の家康の苦難の遠因となった。

天文13年(1544年)8月22日、死去。享年72。

松平長親

七代の清康くんは英傑でして、上記の事情により解体の危機にあった安城松平家を十三歳で相続。わずか3年後に敵対していた岡崎松平家の山中城を攻撃。たまりかねた岡崎家当主・松平信貞(西郷信貞とも)は所領と多くの家臣を明け渡し大草に退去します(以降大草松平氏と呼ばれる)。

 清康は岡崎領と家臣を吸収したことで安祥松平家の宗主権を強くします。また、信貞の居城である旧岡崎城を現在地に移し、居城を安祥城から移します。(安城松平氏の居城が岡崎城であるゆえん)新しい岡崎城のある地点は、東海道と矢作川が交差しており、水陸交通の要衝だったのです。

なお、このような安城松平氏の歴史から、同家の譜代家臣として、「安城譜代(安城時代から仕えた)」「山中譜代(岡崎家旧臣)」「岡崎譜代(岡崎に移ってから仕えた)」という分類があるそうです。

そのあとも大活躍し、二十代にしてほぼ三河国を制圧。25歳で隣国・尾張に攻め込みますが、守山城攻めの陣中で側近に打たれ死亡。松平軍は総崩れ、三河制圧も幻と消えました。(守山崩れ)。

清康の嫡男・広忠が跡を継ぐはずが・・・桜井松平氏・松平信定に領地を取られてしまいます。復帰のため、吉良氏、のちに今川氏を頼ります。復帰に成功するも松平家はガタガタ。織田氏による三河進攻に今川氏に援軍を求め、代償として竹千代(のちの家康)を人質として送ることに。 

wiki天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の松平信定は岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり所領を悉く押領し、また広忠を殺害しようと企てるようになった。
天文8年(1539年)、吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、吉良を見限り駿河へ
天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後岡崎城を占領した。
天文16年9織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。

wiki 松平広忠

天文9年(1540年)には、敵である織田信秀に安祥城も占拠されてしまいます、信秀は城代に織田信広(信長の兄)を置いています。

天文16年、今川氏に送られるはずだった人質・竹千代は拉致られて織田氏に送られます。

天文18年(1549年)に広忠が病死。同年、今川(松平)軍が安祥城を攻め城は落城。捕虜となった織田信広と竹千代を人質交換。竹千代は駿河で人質生活に入ります。 あとは・・・大河ドラマをご覧ください。

参考 松平家系図

「愛知県の歴史」より

安祥城訪問記室(牟呂)城訪問記も、よかったら読んでください。