「どうなって家康」②ネットワークの松平氏

徳川家の始祖となった松平親氏(徳阿弥)が治めることになった松平郷、その統治はどのようなものだったのでしょうか? 司馬遼太郎は次のように記述しています。

「三河物語」によれば、この山里は「道ホソクシテ石高シ」というぐあいだったのを、徳阿弥は百姓たちに、カマ、クワ、ヨキ、マサカリなどをもたせ、道路を四通八達させ、また橋をかけさせたという。

山中に道路網を張ることによって、ただの山を人々にとっての有機的な働きをする場に変えたのである。このことで、生活と生産、それに軍事の面で、松平郷は一変したのに違いない。

司馬遼太郎 街道をゆく43「濃尾三州記」より

「道路を使い各地を漂泊してきた人」が棟梁になることで、どこにでもあった山里暮しの中に、道路網「ネットワーク」が導入され里が一変した感じ。あたりの山里から、一歩抜き出ました。

そんなネットワーク力を更に生かしたのでしょう、二代泰親や三代信光の代、松平家は「商人」(武装した運送屋から金融業を幅広く運営していたんじゃないかと想像)として力を蓄え飛翔していきます。その活躍範囲は三河にとどまらず、京都や近江を含む幅広いネットワークを持っていたようです。

また、地元の事情に明るい三河国守護の被官となる(これが通常の形態)のではなく、京都の実力者の被官となることで、地元での行動の自由度を上げるような選択もしていたよう。

『三河物語』によれば、松平氏第二代とされる泰親は松平郷を出て岩津の城を強奪し居城としたという。・・・この進出は武力ではなく買得によるものと推論する説もある。

・・・二代目泰親の代には有徳人としての経済活動で松平氏は力を蓄え、室町幕府の政所執事伊勢氏に仕えて政権中央との関係を結びながら三河国内のみならず京都・近江国にまで活動範囲を広げた。

wiki 岩津松平家

信光は幕府納所執事の伊勢氏被官として、幕府御料所の山中郷などの代官をつとめ、額田郡内に地歩を固めた。信光弟の益親は、伊勢氏被官として十五世紀なかば京都を拠点にして北近江の日野家領大浦荘の代官をつとめ、金融活動も行っていた。信光惣領で岩津家をついだ親長も、引き続き京都で金融活動を行っている。

三鬼清一郎「愛知県の歴史」より

やがて根拠地を松平郷から矢作川のほとり岩津(岡崎平野の上端部)に移しました。 岩津松平家の成立です。  少し先走りますが、以降松平宗家の本城は岩津→安祥(安城)→岡崎と変わっていくのですが、いずれも矢作川の近くにあります。当時の大動脈である矢作川の舟運ネットワークを抑えるという明確な意図があったものと思われます。

このあたり、愚直で主君に忠実、戦にめっぽう強いが・・・という常識的な「三河武士」のイメージととまったく違う存在に見えますね。

(ただし、家康時代にも、かなり商家色の濃そうな有力家臣もいます。鳥居元忠で代表される「鳥居家」です。元忠の祖父にあたる鳥居忠吉とか特に★1)。

(松平郷は、信光の兄が継ぎ、小豪族として平野部の兵乱に巻き込まれることなく存続しました。のちの松平郷松平家です★2)

以降、平地に降りた松平氏は軍事力を強め(世の中が乱れてきたという背景もある)、矢作川流域である岡崎平野そして三河国を手中にすべく活動を開始していきます。その一つの契機になったのが、1465年に起こった額田郡一揆の討伐戦でした。

額田郡内における領主権は主筋の伊勢氏を背景に獲得したものであったが、伊勢氏の命を受けたこの一揆討伐では本格的な軍事行動によって鎮圧に成功し、松平氏は在地三河での領主的存在感を示すことが出来た。またその論功行賞として幕府から深溝・形原・竹谷・五井・長澤等の新所領を獲得に成功した。これにより、勢力を西三河のみならず東三河宝飯郡の一部にまで拡大し、各々に松平庶家を分出した。これらは後に松平氏が三河国において戦国大名化するための足がかりとなったと言える。

額田郡一揆

信光は論功行賞で得た領地だけでなく、武力で岡崎や安城(当時は「安祥」と言った)を支配下に加え、各地に子を配し、三河の戦国大名である松平氏の基礎を築きます。手が早いというか、「英雄色を好む」のも先祖譲りなんか・・・?

長命で子も多く、『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』によると48人の子供がいたという。自身の子を分立させ、竹谷松平家、安祥松平家(後の松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家が各地に置かれた。

wiki 松平信光

以降、三河各地に分家を置くことが「当家のブーム」と言わんばかりに分家しまくり、まるでオセロゲームのように三河(矢作川流域+一部宝飯郡)が松平一党に塗り固められます。

「愛知県の歴史」より

世に「十八松平」という言葉が残っているくらい。

十八松平(じゅうはちまつだいら)は、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに鼠算式に分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を含める場合もある。家康の祖父・松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。
「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。

wiki 十八松平

記載されている通り、十八松平がどこを指すのか定説はないのですが、江戸時代まで残った徳川家以外の十四家ははっきりしています。 家名と初代の素性、名前の元になった領地、幕末の代表的な位置づけ の順で紹介します。

  • 竹谷松平家 – 岩津松平信光の 長男 宝飯郡竹谷(蒲郡市竹谷町)、宝飯郡5千石旗本
  • 形原松平家 – 岩津松平信光の 四男 宝飯郡形原(蒲郡市形原町)、丹波篠山藩5万石
  • 大草松平家 – 岩津松平信光の 五男 額田郡大草(額田郡幸田町大草)当初は額田郡岡崎(愛知県岡崎市)なので岡崎松平と言った。1千石旗本・無子断絶
  • 五井松平家 – 岩津松平信光の 七男 宝飯郡五井(蒲郡市五井町)、遠江で5千5百石旗本
  • 深溝松平家 – 五井松平忠景の 次男 額田郡深溝(額田郡幸田町深溝)、肥前島原藩6万5千石
  • 能見松平家 – 岩津松平信光の 八男 額田郡能見(岡崎市能見町)、豊後国杵築藩3万2千石
  • 長沢松平家 – 岩津松平信光の十一男 宝飯郡長沢(豊川市長沢町)、本家断絶。分家の大河内松平家(知恵伊豆こと松平伊豆守信綱を輩出)が上総大多喜2万石。
  • 大給松平家 – 安祥松平親忠の 次男 加茂郡大給(豊田市大内町)、三河西尾藩6万石
  • 滝脇松平家 – 安祥松平親忠の 九男 加茂郡滝脇(豊田市滝脇町)、駿河小島藩1万石
  • 福釜松平家 – 安祥松平長親の 次男 碧海郡福釜(安城市福釜町)、本家断絶。庶家旗本
  • 桜井松平家 – 安祥松平長親の 三男 碧海郡桜井(安城市桜井町)、摂津尼崎藩4万5千石
  • 東条松平家 – 安祥松平長親の 四男 幡豆郡東条(西尾市吉良町)当初は碧海郡青野(岡崎市上青野町)なので青野松平と言った。 無子断絶。家臣団は尾張徳川家に引継
  • 藤井松平家 – 安祥松平長親の 五男 碧海郡藤井(安城市藤井町)、信州上田藩5万3千石
  • 三木松平家 – 安祥松平信忠の 次男 碧海郡三木(岡崎市上三ツ木町)、本家断絶。庶家旗本

三河に松平ホールディングスが完成した戦国時代、西の織田氏と東の今川氏に挟まれた彼らは自分の会社(家)が生き残ることを最優先としながら時に一族結束し、時に今川織田方に別れ一族で相争いながら、総合的に見れば松平宗家(安祥松平家)の勢力拡大に寄与。宗家が徳川として天下を取った江戸時代まで十四家が生き残りました。 

 *あれ、松平宗家は岩津松平家じゃないの?それに安祥松平家の居城は安祥(安城)城で、岡崎城じゃないよね?と思ったあなた。鋭い! でも長くなったので、その話は次回にしとうございます。乞うご期待。

松平家より早くから三河に基盤を持っていた名家・吉良家は分裂した東西二家がひたすら争っており、三河国では領地を幡豆郡の一部から拡大できませんでした・・・。松平家と親族になったり(堯雲寺の記事参照)、弱体化した松平家を助けたり(室城の記事参照)もしたのですが、最終的には三河統一をめざす家康に飲み込まれていきます。 まあ名家のため、のちに小領主として復活させてもらったけれど(堯雲寺と岡山陣屋の記事参照)。

★1 鳥居忠吉

天文18年(1549年)竹千代(後の徳川家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、鳥居忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていた。だが、収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮する。そんな僅かになった収穫であっても、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。

阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝されたという


苦難の時代に異常なほど財を蓄えていたのは忠吉が「ワタリ(渡り)」(各地へ物品を買い求め売り捌く商工業者)だったためではないかと推測されている。『永禄一揆由来』では「分際宜き買人」とあり、『三州一向宗乱記』では「農商を業とする富裕の者」とあり、鳥居家はかなりの経済力を持っていたようだ。鳥居家は三河碧海郡を居としており、ここは矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていたと考えられている。

wiki 鳥居忠吉

家康飛躍の影の功労者となった鳥居忠吉、そのお墓は西尾市の不退院にあります。訪問記はこちら

★2松平郷松平家

松平郷松平家の実質上の初代は、親氏流松平家の初代・松平親氏(14世紀後半頃)の長子とされる信広である。信広の弟とされる松平氏三代・松平信光が所領を三河国平野部に拡張して額田郡岩津郷(岡崎市岩津町)に居城を移したとき、松平氏の元来の所領である山間部の松平郷が長子の信広に譲られたことにより、嫡子の信光系の松平本宗家(安祥松平家または岩津松平家)から別家された信広系の松平郷松平家が成立した。ただし、庶宗家と呼ばれるのは分家の一つ安祥松平家(徳川家)の成長後であり、元来の所領を受け継いだことから考えて、実際は名実共に嫡宗家と見られていたと考えられる。

江戸時代に入ったとき、松平郷松平家の所領は250石余りであり、結局440石余りの旗本身分に貶められた。しかし松平氏発祥の地である松平郷を領有し続けたこと、将軍家の始祖である親氏直系の宗家であることから最低限の待遇を受け、交代寄合として大名なみに参勤交代を行う家柄とされた。ただし江戸に屋敷は与えられず、江戸に入った際は分家で江戸在府旗本の松平次郎左衛門家か、奥殿の大給松平氏の屋敷の居候扱いとされた。

wiki 松平郷松平家

「どうなって家康」①初代親氏と酒井氏

企画提案書: 来年始まる大河ドラマ「どうする家康」の放送に合わせ、徳川家康とゆかりのある地では、様々イベントを開催し、観光客の誘致に必死です。 当ブログも、それに乗ってもいいんじゃね ってことで企画しました!

とはいえ、「どうする家康」の部分は、それこそ番組を見ればわかることです。そこで、どういった歴史や地盤のうえに、徳川家康(松平家9代目)が成立したのか、そのあたりに焦点を当てたく「どうなって家康」というテーマとしました。

徳川氏の祖とされるのは、時宗の僧侶だった徳阿弥という人。この人が松平郷の松平太郎左衛門家に逗留。やがてその家の娘と通じ男の子を出産。そして松平家の養子に入り、松平親氏(ちかうじ)と名乗ることから始まります。

松平郷の開拓領主は、後宇多天皇(在位1274 〜1287 年)に仕えた公家の在原信盛と言い入郷したのは弘安年間(1278 〜1287 年) の頃で、現八幡神社松平東照宮境内に本屋敷を構えたと伝えられています。 信盛の子信重は、開拓を進め人馬の道を作り交通の便を図りました。 後にこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称しました。 ここに徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏(不詳〜1394 年4 月24 日没)の出現です。

松平氏の発症 松平郷ふるさとづくり委員会 事務局

松平太郎左衛門家は親氏より前から続いていたのに、なぜ親氏が祖とされるのか。それは彼が「養子」だったからです。

もともと松平氏は「在原氏」出身のようです。後のことになりますが、「在原氏」出自のままでは、家康は源氏が就くとされる征夷大将軍になれません。そこで、養子・親氏の出自が「上野国得川にいた新田氏(源氏)の一族」であるとして、征夷大将軍になれる血筋であることを示したのです。

普通に考えて、高貴の種がそんなに転がっているとも思えないし、親氏の話もどこまでが真実かはわからないのですけど、まあ大人の事情でそういうことになっています。

でもま、それなりの家の養子に入るくらいなんだから、教養があったとか、見込みのある将来有望な(そして手の早い・・・)若者だったのでしょう。

そんな’徳阿弥くんですから、実は松平家に養子になる前に、もう一件やっているのです。

そのあたり、司馬遼太郎の筆にかかるとこんな感じ。

徳阿弥は三河に入ったもののすぐ松平郷にきたわけではなかった。まずいまの吉良町の酒井与右衛門(名については、諸説がある)という地侍級の家に長逗留した。

逗留した幡豆郡吉良は、三河の大河矢作川の下流の水田地帯で、酒井氏がどれほどの家だったかはよくわからない。

その家には娘(若後家ともいう)がいて、徳阿弥はこれと通じ、男の子を得た。この子が、徳川家臣団でも筆頭の家ともいうべき酒井家の祖広親になる。

徳阿弥の行動は、数奇である。かれは吉良には落ちつかず、矢作川をさかのぼり、さらにその支流の巴川沿いの山道をのぼって、松平豪の松平太郎左衛門信重というものの家に逗留した。そこにも娘がいた。・・・

司馬遼太郎 街道をゆく43 「濃尾参州記」 より

ここは素直に「何をしているんだ、徳阿弥くん!!」と突っ込むところでしょうねえ。まあ風習や道徳が今とは違いますから、いいんだけど。

もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の仮冒であって、松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。その真意は不明だが、愛知県西尾市吉良町荻原字小野の酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。

wiki 酒井氏

酒井氏は三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主というのが定説のようですが、司馬氏は幡豆郡説を取っているようです。  

碧海郡酒井郷は尾張との境近くにあります。吉良と松平なら当時の大動脈である矢作川とかその支川の近傍であるといった類似点もあり、僕も幡豆郡説がもっともらしいなあと思います。 それに地元ですからね!

 ってことで、幡豆郡坂井郷 現在の西尾市吉良町酒井に行ってきました!

酒井集落の稲荷神社を目印に行くとよいでしょう。 数台停められる駐車場があります。神社脇には「酒井氏発祥の地」看板が立てられています。(西尾市教育委員会)

google mapより

この看板を頼りに酒井氏先祖の墓を見に行きましょう。歩いて100mほどの道路脇(駐車場なし)。

右から

  • 親氏子 酒井氏始祖 酒井広親墓
  • 松平氏始祖親氏父 長阿弥(新田有親)墓
  • 酒井村草創の祖 酒井五郎左衛門墓
  • 親氏内室 広親母 酒井五郎左衛門娘墓

酒井家は、いうまでもなく、江戸時代、何家にもわかれて大名になる家である。家康はその後半生、徳川軍の先鋒は、酒井と井伊にした。江戸幕府が始まると、この両家は相並んで譜代筆頭となった。もとはといえば、徳阿弥のいい加減さからはじまったものである。

濃尾三州記より

「破戒僧だ」とか言わないあたり、品がよろしいというか、いかにも司馬氏らしい文章だなあと思います。 

 家康の代の酒井氏といえば、なんといっても酒井忠次でしょう。三河国を統一した家康は三河を二分し、西三河を石川数正(在岡崎)に、東三河を酒井忠次(在吉田)に統治させました。二人が三河時代の徳川家筆頭家老です。当の家康は岡崎にいたのですから、単独で吉田(現在の豊橋)に置いた酒井をどれだけ信頼していたのか、わかるというものですね。

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「酒井氏発祥の地」看板には、この地が拓かれたのは南北朝のころ とありますが、実際はもっと古いのかも って思いました。 この墓は西を向いて建てられていますが、東側には南北に延びる低い山脈が走っています。山脈は南東でじきに尽きるのですが、その尽きた地を「饗庭」と呼びます。

「饗庭」には鎌倉時代に造られたという古いお堂(国宝 金蓮寺弥陀堂)があります。そもそも、饗庭の地は平安時代から伊勢神宮領として存在していました(饗庭御厨)、また、このあたりで製塩された塩を「饗庭塩」と呼んだように、古くから開けた場所だったのです。酒井はそこから小川を挟んですぐそこの土地ですから、荘園としての成立は南北朝かもしれませんが、それ前から開発はされてたんじゃないかな と。