犬山散歩3  (脱線話だらけ)  瑞泉寺

犬山遊園駅の裏に、なにやら立派なお寺が現れました。丘の上(正確には山の中腹)にあるお城のようです。  門もまるで城門ですな。これは見ていかねば。

線路を超えると、大きな石段が現れます。石段はやや荒れているけど、植栽も手入れが行き届いた見事なアプローチです。大樹(くすのき?)が山門を隠してしまっています。にしてもデカい!

山門の写真を取り忘れたけれど、柱が驚くほど太いです。寺には不釣り合いなくらい。どこかの城門を移設したものではないかと。

山門は犬山城内田御門を移したものであるが、この山門は以前は美濃国兼山城の大手門であった。

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うん。戦国時代の城門だと言われれば、納得です。

こちらは中門です。 左側の表札には「専門道場」とあります。禅宗の僧侶を養成する場所ですね。なるほど、修行僧がいるので、庭の手入れをする人手があるんだな(作務)。

右側の碧巌録「提唱」ってどういう意味なんだろ?。最初は「いまの時期は、これを読経しています」という意味だと思ったのですが、碧巌録というのは、お経ではなく禅の公案集ですから、声に出して読む  にはそぐわないでしょうねえ・・・

提唱

禅宗で、大衆に宗旨の大綱を説き示すこと。提綱。

コトバンク

なるほど。  ここは教育機関なので、「大衆に」というより、「修行僧に」ということでしょうけど、そういう意味なのね。

僧堂を開単したのは、1928年(昭和3年)三島龍沢寺の山本玄峰を拝請した時である

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山本玄峰・・・僧侶としての業績は知りませんが、終戦時の詔勅「耐え難きを耐え、しのぎ難きを忍び」という表現の一端を担った  と言われている方ですな。ま、龍沢寺時代のことだから、瑞泉寺と直接の関係はないんだけれども😂。

八月の確か十二日頃であったと思いますが、朝雨の酷い日に、一人の青年が朝早く龍沢寺を訪ねて来ましてね―その当時、私は玄峰老師の侍者をしておったんですが、「是非玄峰老師に直接お会いしたい」と、そういうものですから、老師のところへ案内をしましたところが、老師は、早速手紙を書き出しましてね、「この人はすぐこれから東京へ帰らんならんから、朝早いけれども、朝飯を食べさしてあげてくれ」そう言って、老師は自分で手紙を―当時大事な手紙は老師は自分で書かれましたが、まあほとんど私や宗淵(そうえん)老師が代筆をしておりましてね。しかし老師は自分で手紙を書かれて、それまであまり自分の手紙を人に見せたことはなかったんですが、老師は、「これは非常に大事な手紙で、もしあまり字が間違ったり、文章の意が届かないと悪いから、お前、一度見直してくれ」と、そう言って私に見せられましてね。それで拝見してみますと、「忍び難きをよく忍び 行じ難きをよく行じ」という言葉がありました。話は前後しますが、これは結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。これが巷間(こうかん)伝えられておるところですね。

忍び難きを忍び―山本玄峰の禅―

閑話休題

本堂の前庭も、きっちり維持されています。枯山水の庭園って美しいんですけど、雑草一つなく維持するには、恐ろしいほどのコスト(人手)がかかるはずです。修行僧によってそれが維持され、我々はそれを無料で拝観できる、ありがたいことです、合掌。

いわく有りげな鐘楼。  背景の小山には、犬山城天守閣が見えています。

鐘楼は明応3年(1494年)建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。

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うう、やっぱりなあ。でも写真を見てもどこに三猿(日光東照宮で有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」のこと)がいるのかわかりません・・・

裏手に、突如そこだけ岩が露出した不思議な一角があります。  岩山の上は門と塀に囲まれています・・・門の先(進入禁止)には小さな池があります。その奥には、写真に写っている「窓の大きな展望室のような建物」とそれに連なる建物群が。だいぶ荒れていますが瀟洒で、寺院建築っぽくはないです。昔は宿坊でもあったのでしょうか?

池はこれでしょうね。

犬山たび  物語の巻  犬山市文化遺産活用実行委員会

地図を見ると、寺のある山が犬山の町から東にあるから、「青龍」山(青龍は四神の一つで、東を示す)という見方もできそうですが、それはそれで・・・あ、東の青龍は、流水を意味するそうだから違うか、失礼しました。

地相からみて、天の四神に応じた最良の土地柄。すなわち、左方(東)は青龍にふさわしい流水、右方(西)は白虎の大道、前方(南)は朱雀の汚地(おち)(=くぼんだ湿地)、後方(北)は玄武の丘陵を有すること。官位・福祿・無病・長寿を合わせ持つ地相で、日本の平安京の地勢はこれにあたるという。四地相応。

コトバンク  四神相応

先程の岩山?から続く階段をのぼると、寺の裏手の山にある墓地群に出ます。いい眺めです。

中央に流れるのが木曽川(右から左に流れる)です。見にくいですが、左上の川に突き出た丘(山ではない)に築かれたのが犬山城。  攻めにくい要害であるとともに、木曽川を監視できる位置にあることがわかります。

にしても、凄まじい数の墓石ですね。このあたりのお寺は、瑞泉寺の塔頭が多く、それらの共同墓地みたいな感じになっているのです。永代供養墓(宗派問わず)も売ってましたよ。この風景を眺めながら永眠  というのも悪くありません。

写真には写っていませんが、右側の鉄橋を渡った対岸の丘に鵜沼城という城跡もあります。犬山城と対で、当時の交通の大動脈である木曽川を上り下りする船をバッチリ抑えられます。

と思い出すのが、ドイツのライン川下りですな(強引)。あそこも川を使った輸送が盛んで、領主が通行税を取るためにボコボコ城を作ったのが観光施設として残っています。小領主が乱立していた  という面もあるけれど。

ライン川のクルーズ船はマインツからケルンまで約185kmを往復しています。でも、一番のおすすめはリューデスハイムから乗船し、ビンゲン・アム・ライン~コブレンツ間の「ライン渓谷中流上部」を下る、直行すると約1時間40分のルート。古城はもちろん、「ローレライ」「ラインの大蛇行」「ドイツの角」と、ライン川を代表する見所のつまったコースです。
ビンゲン・アム・ラインを出発してまもなく、左側に見えてくるラインシュタイン城はライン川で最も美しいとされる古城のひとつ。13世紀後半にライン川の通行料を徴収するために建造されました。その後戦乱による破壊と修復を繰り返し、19世紀にはプロイセン王国によって復元され、王族が夏に滞在したといわれています。現在は、ホテルとして宿泊でき、なんと結婚式を挙げることもできます。

ドイツ世界遺産を縦断!ライン川クルーズで古城巡り    ANA

それもあって?  このあたりの木曽川の峡谷は、日本ライン  と呼ばれています。

日本ライン(にほんライン)とは、岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川沿岸の峡谷の別称。 風景がヨーロッパ中部を流れるライン川に似ていることから、1913年に志賀重昂によって命名された。

日本ライン

志賀 重昂は、大正から昭和初期の地理学者です。  愛知県岡崎市出身。攻玉社を経て札幌農学校卒。海軍兵学校の練習船に便乗して世界を巡りました。著書「日本風景論」で有名です。他に雑誌「日本人」を発行。wiki

明治の大ベストセラー。明治期の地理学者による、日本を地理学的に解説した初期の書籍であり、詩情豊かな文章でこの国の風土を讃えるものです。科学的・実証的な論述でありながら、日本文学の古典を豊富に引用し、明治画壇きっての名手である樋畑雪湖・海老名明四の挿画とあいまって、日本の自然の美しさを述べた古典的名著です。日本人の景観意識に重要な変革を与えた記念碑的作品です。

(講談社学術文庫)

日本風景論、講談社学術文庫で発行されています。決して読みやすい本ではありませんが、風景論?で有名な和辻哲郎の「風土」と比べると(こちらは日本と海外との比較論ですから比較は難しいけれど)、和辻が哲学者、志賀が地理学者というベースの違いもあり、理系の人にはこちらのほうが興味深いかもしれないです。もっとも、時代的な素養もあり、かなり古典も引用した漢文調ではあります。

この人、登山もお好きだったようで、火山が日本の風景を形作った要因の一つだとして、日本全国の主要な火山に言及されていますし(当時の知識水準において)、登山ガイドやら「登山の気風を興作べし」という一文も付録されています。

解説によれば、小川琢治☆は「進化せる名所図会」と評価していたそうです。一読した感じでは、「言い得て妙」だと思います。    

☆日本の著名な地質・地理学者。日本人でノーベル賞受賞第一号の物理学者・湯川秀樹の父親。

と、ところで(脱線しまくり)、瑞泉寺には非公開だけど何点か寺宝があり、その中に「血達磨図」というのがあります。

犬山市

名前に引っかかって調べてみたのですが・・・(「達磨図」は珍しくないけど「血」達磨となると)足利氏あるいは細川氏と縁のあるものという表記が散見されました。

 細川氏は足利氏の一族ですし、足利幕府(室町幕府)の管領職ですから、足利・細川両氏に縁がある可能性もありますが、 本当に細川氏と縁のある血達磨図なら、有名なこれ・・・の可能性もあるんかと・・・

講談。肥後熊本の細川家に伝わる名宝の由来譚。主人公の名をとって《大川友右衛門(おおかわともえもん)》とも題する。細川綱利侯に仕えた大川友右衛門は,江戸屋敷類焼の際,切腹して主家の重宝達磨の掛軸をみずからの腹中に収め,命にかえてみごと,お家の宝を守り通したといわれる。この血に染まった達磨が,細川の血達磨と呼ばれ,長く友右衛門の忠節がたたえられた。いわゆる武勇物,忠義物の一つであるが,その他友右衛門が綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ話や,妖刀村正のたたりなど面白いくだりがある。

コトバンク

ま、本物なら、公的なホームページでデカデカと紹介されても良さそうなものですけど、それは見つからないですねえ。 それに瑞泉寺と細川氏との関わりも出てきませんし。コレではないかな・・・  不明です。

晴れていたら、連山の奥の寂光院まで足を伸ばしたかったんですが(個人的には途中にある犬山国際ユースホステルも覗いてみたかった)、雨がひどくなったので、山を降りて帰りました。    

 このお寺、色々みどころがあるし、妄想の連想もできて、なかなかよい場所でしたよ。何より無料ですしね!

 

犬山散歩2  旧磯部家住宅

江戸時代の町家(商家)で、無料で見学することができます。

城下町マップの解説では、「緩やかなふくらみのある起り屋根は市内の町家で唯一現存 」とあります。確かに屋根が凸状に膨らんでいますねえ。でもさ、そもそも 「起り屋根」って、なんて読むんだよう。

答え。むくりやね。

で、なんでわざわざ「むくらせる」必要があるの?

起り屋根 むくりやね
屋根の傾斜面が上方向に凸状に湾曲して状態のことを言う。
一般的な起りは屋根の流れ寸法の1/100内外とされ、意匠的な場合には3/100内外とされているものもある。
緩い勾配の屋根においても軒先の勾配をきつくすることができ、軒先に集まる雨水を流し易くなるというメリットがある。
寺社仏閣あるいは武家屋敷等には見られず、町屋等主として商人、庶民の家に用いられていた。
日本独特の屋根の形状で他の国では見られない。

石川商店

ということだそうです。有名なところでは、桂離宮の屋根がむくれています。

桂離宮はこけら葺き(ヒノキの皮)の屋根ですから、瓦より余計に雨仕舞に気を使う必要がありそうです。だから「むくらせる」のは合理的でしょう。もちろん、デザイン的にもイケてた  という面もあるでしょう。 ・・・実物を見たことはないんだけど。 

「こけら葺の“むくり屋根”」のなかでも、『桂離宮』の入母屋の“むくり屋根”は飛び抜けて素晴しい。特に古書院の屋根は、ゾクッとするほど鋭くて、かつ、雄大……この印象は、日本刀の名刀に似ている、と私はおもっている。

生涯一設計士・佐々木繁の日々

瓦屋根の場合、こけら葺きより水気には強いだろうから、雨仕舞というよりデザイン性がより重視された・・・のかもしれないですね。商家にはもってこいの形なのかも。

屋根にむくりを付けているので、通りから瓦がよく見える。設計者の内藤廣氏は、「むくり屋根は通りに対してちょっとお辞儀をしている感じで、柔らかい印象になる」と話す。

2つのむくり屋根で風景一変
内部は繊細な屋根架構で外観と違う印象に 発注:京都鳩居堂 設計:内藤廣建築設計事務所 施工:野口建設

むくり屋根は、隈研吾設計の国立競技場にもあったり・・・

「むくり」と「そり」を知っておこう(イラスト:宮沢 洋)
無観客でも満席に見える 「未来予知」と話題の国立競技場を疑似体験

住宅は、表通り側は2階建て、奥に行くと平屋建てになっています。町家に多い間口が狭く、奥行きが広い「ウナギの寝床」型のつくりです。奥には中庭、裏座敷、土蔵とかいろいろ立ち並んで広いんだけど、 「家族が暮らす部屋」ってのがありません。

管理人いわく、家族は狭い2階の部屋で暮らしていた  そうです。  暮らしより来客と買い物客(呉服屋だったそう)を重視した家なのです。もっとも、当時の商家ってのはそういうものかもしれませんが。

二階に上がる箱階段

箱階段って、現代の極小住宅でも有用な技術だと思うのですが、あんまり見ませんねえ。組み立てるのに手間がかかるから・・・でしょうか。既製品じゃなく、その家に合わせて作る必要があるでしょうし。

あと、面白いな  と思ったのが、仏間の仏壇収納の扉です。てか、管理人さんに教えてもらったのですが。(その日最初の見学者で、他に見学者もいないので、しばらく雑談してました)

これは春慶塗の豪華なもの。面白いのはその造形。  縦長の細長い木片を並べ、それらの裏から丈夫な和紙を貼ることで、屈曲できるスライドドアに仕上げてあります。

スライドドアは、仏壇収納部の敷居と鴨居のレールに支えられています。レールは、R型に掘られており・・・これは車庫に使うような「横引きスライドシャッター」ですね!

三和シャッター  デジタルカタログ  より

カタログに書かれているように、「上部にケースがないので内のり高さを十分に活用できる」という利点がありますし、スライドは側面に収納することができるので、正面に十分な開口部ができ、仏壇を収めるにはよいでしょうね。

ま、木製なので、「雨の日は開けづらいの」ということでしたが(笑)。アイディアとデザインは素晴らしいですね。

奥の外廊下の壁にベンガラが塗ってあったり、流石に豪華な作りです。

廊下北側には渡り廊があり、客便所と裏座敷に通じています。廊下の壁は弁柄色の赤壁です。

旧磯部家住宅  犬山観光情報より

 写真を取り忘れたのだけれど、家の基礎石や井戸は、近くの木曽川の河原でたくさん取れる「丸石」が多用されていました。石も上流からゴロゴロ転がってくる間に丸くなるのね。地域資源の有効活用です。トラックのない時代、遠方から運ぶなんて大変だからね。

管理人さんが子供の頃は(先の大戦中)、まだ河原に丸石がゴロゴロしていたそうです。「ダムが出来てすっかりなくなっちゃったけど」とのこと。  そりゃそうだ。

丸石を家の基礎や井戸の枠組みに使うのは、四角に近い石にくらべ施工が大変  と素人は思うのですが、町では石垣に使っているところも見ましたので、当時は「地域特有の資源を有効活用する技術」がきちんと確立されていた  ということなのでしょう。材料費や運賃より人件費が相対的に安かった  とも言えますが。