刈谷市探訪

依佐美送信所を訪問したついでに、刈谷市も訪れました。

え、刈谷市ねえ。トヨタ系大手企業の城下町で、僕の好きな歴史的目玉史跡があるわけでもなく、そもそもうちから原付で30分、これまで訪問したことなかったんだけど・・・

いま”あいち旅eマネーキャンペーン”という、「愛の愛知県による愛知県民のための旅行割引」が始動してますんで、それを利用して身近な都市の魅力を追求しよう ってことでございます。

んで、刈谷市で一泊して、観光案内所で電動自転車借りて観光してみたところ・・・

このマチは、駅前の一等地が工場等に占拠され、駅前は一方通行が多く、南北連結も高架や地下道で立体化されており、「トヨタ系企業へ通勤するサラリーマンにはいい街だけど、一見さんの観光客には優しくない街だ」というのが感想(笑)。ま、こういうのは行かないとなかなか実感できないものだからして・・・

刈谷市の中南部を撮影した航空写真を見てくだされ。

google mapより

赤枠で囲ったところが刈谷駅です。白く囲われた部分は、トヨタ系大手部品メーカ(自動織機、紡織、アイシン、デンソー、豊田車体等々の本社と工場群。普通の街であれば、駅前は商業地や本社で、郊外に工場群があるもんでしょう。それが駅前を工場が占拠するとな。

豊田自動織機、デンソー、トヨタ紡織、トヨタ車体、アイシン精機、愛知製鋼、ジェイテクト(旧豊田工機)などのトヨタグループの中心企業が軒並み本社、主力工場を構える。

wiki刈谷市

もちろん、企業城下町と言われるところでは、そういう立地も珍しくないのですが、流石にこれだけ集中してると度を越してますな。逆に言えば、そこに、刈谷という街の成り立ち、というか歴史を紐解く鍵がありそうです。

まず地理的な特徴を述べると、西側に川が流れています(写真中央やや左より、南北に流れている2つの川)、古くはこれらの川を含んだ低地は「衣が浦(ころもがうら)」という入り江でした。現在でも写真の南側で2つの川が合流し、「衣浦(きぬうら)湾」となります。 写真にも、「刈谷市立衣浦小」って表示がありますな。

ちなみに西側の川を「境川」と言いまして、その名の通り、この川を挟んで西側が「尾張国」東側が「三河国」の国境となっていたのです。尾張国側の東浦町ですが、ここは知多半島の付け根に当たっています。そういう位置関係です。

んで、三河国側は川に面して僅かな平地(元衣が浦)を置いて台地が続き、刈谷市の大半はこの台地上にあります。台地の土は瓦に適した良質の粘土(西三河の特産である三州瓦の原料)ですから、地盤は良好です。 

地盤の良好さも、依佐美送信所(写真では右下の「フローラルガーデン依佐美」の位置)やトヨタ系企業の本社や工場が置かれるようになった要因の一つでしょう。

歴史的に言えば、刈谷の街は、戦国時代に「水野氏*」によって河岸段丘と衣が浦を利用した刈谷城が築城され、以来城下町として栄えてきました。衣浦小近くの神社記号は「本刈谷神社」、寺記号は水野氏の菩提寺「楞厳寺(りょうごんじ)」です。城下町は城からこの辺りにかけて広がっており、今の刈谷駅とは随分離れています。これは駅前工場立地の大事な要因だな(そして、駅からレンタサイクルの観光客には優しくない話・・・)。

刈谷城ジオラマ(刈谷市歴史博物館) 上側が城下町に 下側が衣が浦に面します。
本刈谷神社

本刈谷神社の境内は、県指定の貝塚(縄文遺跡)です。内湾に面した台地は縄文人が暮らしやすい良い土地だったのでしょう。

楞厳寺 なかなか立派なお寺です。水野氏も眠る墓地を売り出してました。おひとついかがです?

明治時代に入り1888年、町から大きく外れた郊外に東海道本線と刈谷駅が設置されます。その頃の地図がこちら(1890年)。

城下町付近は人家が密集していますけど、できたばかりの刈谷駅前は、街道沿いに家があるくらい・・・駅前の広大な土地も、安く手に入るんじゃ?そのわりに、刈谷駅から大都会である名古屋までは、当時の電車で30分ほどと、交通の利便性は悪くないようです。

さらに1915年、刈谷を含む碧海郡役所のある知立、三州瓦の生産地である高浜、出荷港である大浜を結ぶ三河鉄道(今の名鉄三河線)も開通。刈谷駅は国鉄と三河鉄道の結束駅になります。もう交通の要所だわ。

さらーに1919年、刈谷に愛知県立第八中学校(現在の刈谷高校)が開校。交通の要所恐るべし。これでサラリーマン家庭で重視されるであろう、子息の教育環境もバッチリ!

かくて1923年。当時の刈谷町は駅近に豊田紡織を誘致。敷地10万坪という土地を、格安で提供したそうです。すると誘致された試験工場で研究中の「自動織機」が完成し、1925年豊田自動織機製作所創設。 

以下は御存知の通り。豊田は自動車に進出し、自動車本体はさらに安く広い土地を求めて豊田市へ出てしまうのですが、製鋼部、工機部そして電装部等は刈谷で分社化し、今に至ってるわけ。 

なるほど、駅前がトヨタ系の工場・本社に占拠されているわけですなあ。ま、悪いことばかりじゃなく、駅前の施設や体育館、市立歴史博物館等の建物を見ると、(法人税のおかげで)刈谷市の財政は豊かだな ということがよく分かります。ま、それを「ハコモノ行政」と言うわけですが。 

*長い余談。戦国時代の三河の国の豪族たちは、西(尾張)の織田氏につくか、東(遠江・駿河)の今川氏につくか、の選択に迫られていました。要するに三河は両雄の草刈場だったわけ。時の当主・水野忠政は今川につくことに決め、同じ三河の豪族で今川方の松平家に娘を嫁に出します。娘の名は於大(おだい) 。松平氏の夫との間に生まれたのが竹千代(徳川家康)です。

が、忠政が死んであとを継いだ息子信元は、織田につくと変更したため、於大は松平家から離縁され刈谷に戻りました。のち、知多半島の豪族・久松家に再嫁します。久松家の城は現在の阿久比町にありましたから、刈谷市と東浦町を挟んで隣という位置関係。

その後色々あるんですが、水野家も久松家も大名家として存続します。 久松家は家康の異父弟が家を継いだので、「松平」の名字を与えられ、久松松平家と呼ばれることになります。

いきなりですが、江戸時代の三大改革ってご存知でしょうか。三度の幕政大改革のことで、享保の改革、寛政の改革、天保の改革を指します。

享保の改革を行ったのは、八代将軍の徳川吉宗です。寛政の改革を行った松平定信は吉宗の孫。御三卿(将軍の家族)田安家の出身で、久松松平家に養子に入りました。天保の改革を行った水野忠邦は、刈谷にいた水野家の末裔。ちょっと於大つながりで面白かったから、ご紹介しました。

参考文献 松岡敬二編「古地図で楽しむ三河」風媒社、三河教育研究会社会科部会「社会科郷土資料」非売品・昭和38年

 

小諸なる古城

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍くによしなし
しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る

あたヽかき光はあれど 野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む

島崎藤村「小諸なる古城のほとり」  落梅集より

佐久シリーズの最終。小諸城を訪問しました。 小諸城って言うより「懐古園」と言ったほうが有名ですけど。城マニアには「穴城」として有名なんですが、 城下町より低い城なんて、どうやって守備するんでしょうか?

城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称がある。また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されている。

wiki

google航空写真だと、城と城下町はこんな感じです。 左下に見えるのが千曲川です。千曲川を底にして、右上方向にある浅間山に向け、台地が広がっています。

城は河畔に川を背にして、河岸段丘を利用して造られています。だから必然的に、城下町は城より高い位置に立地せざるを得ない。 確かに城下町から城の内部を観察することはできるでしょう。

けど、城自体は上の写真のとおり。西は千曲川の河岸断崖に面し、南北は深い谷(田切) が空堀として走っています*。しかもその配置は東側を頂点(緑の□部分)とする逆三角形であり、かなめとなる東側頂点部には門が築かれています。大砲がない時代であれば、門さえ守ればよい、守りやすい堅固な城だったでしょう。 

*谷の一部は現在、駐車場として埋め立てられています。

西側は下の写真のようになっています。写真ではうまく撮影できていませんが、かなり急傾斜で千曲川に続いています。

下は南側の「深い谷」を写したもの。一部コンクリートで保護されていますが、保護せざるを得ないほどの急斜面であり、防備には好都合だったことが分かります。

ま、平和な現在では、城内に当たるこの部分は懐古園の一部として動物園になっているんだけど。 城内には神社や弓道場もあります。

その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園かいこえんの方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校からじか城址しろあとの方へ行くことにした。

島崎藤村「千曲川のスケッチ」より

私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、くわなどが植付けてある。
 こういう谷が松林の多いがけはさんで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川ちくまがわの方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張やはり谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間たにあいで水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。

同上

小諸城近くの小諸義塾の教師として7年を過ごした島崎藤村のエッセイも、実際に現地に言ってみると「なるほど」と実感できますね。

かなめに位置する門がこちら。三の門です。

三の門は寛保二年(1742)に千曲川流域を襲った「戌の満水(いぬのまんすい)」のとき、城下を流れる中沢川などの土石流により城下町の一部と共に流出しました。その後、明和2~3年(1765~1766年)に再建されました。寄棟造りの二層の渡り矢倉門(多聞矢倉門)で、石垣も切込みはぎの石積みによって再建、築かれています。

こもろ観光局

小諸城は小諸駅に隣接しており、駅から来ても、また駐車場から来てもこの門が城の入り口になるのですけど・・・そして、小諸城址の別名である「懐古園」の大扁額がかけられていること(ここから先が懐古園として有料ゾーン)、門前が下り坂になっているので、「穴城」が実感できる絶好の撮影スポットなんですけど・・・実はこれ、大手門ではなく、三の門(三の丸と二の丸をつなぐ門)なのです。

本当の大手門は、線路を挟んだ向かい側にあります。 大手門の位置が、城内で一番標高が高い位置にあるという・・・(上の写真、緑の○部分)。なぜこんなところに大手門を作る必要があったのか、謎だなあ。穴城だと見てくれが悪いのかしら?

ということで、城内を線路(小海線としなの鉄道)が横切る、なかなか例を見ない都市構造を取っているわけです。ま、駅を街の外れに設置したら、ここしかなかったというか。

本丸に建つ、「懐古園の碑」 題字は勝海舟の揮毫だそうです。ちなみに、三の門に掲げられた「懐古園」の揮毫は、徳川家達。 徳川宗家第十六代です。十五代が徳川慶喜なので、世が世なら十六代将軍だった人(後に貴族院議長)。

天守台

苔が美しいですね。こちらの石垣は、戦国時代末期に築かれ、「野面積(のづらづみ)」という積み方です。ほとんど加工されていない自然石を積み上げるので、必然的に隙間が多い積み方です。

一方、江戸中期に再建された「三の門」の石垣は、「切込接(きりこみはぎ)」という積み方がされています。写真を見るとわかるけれど、石同士がピッタリあうよう加工され、隙間がほとんどありません。

まあ、後者のほうが見た目も良いし、技術が進歩した・・・のですが、土木技術者からすると、ちょっと気になる点もあるのです。現代の技術でお城を造ると、多分、宅地になると思うのですけど。

第六条 
一 切土又は盛土をした土地の部分に生ずる崖面で次に掲げる崖面以外のものには擁壁を設置し、これらの崖面を覆うこと。
二 前号の擁壁は、鉄筋コンクリート造、無筋コンクリート造又は間知石練積み造その他の練積み造のものとすること。
第十条 第六条の規定による擁壁には、その裏面の排水を良くするため、壁面の面積三平方メートル以内ごとに少なくとも一個の内径が七・五センチメートル以上の陶管その他これに類する耐水性の材料を用いた水抜穴を設け、かつ、擁壁の裏面の水抜穴の周辺その他必要な場所には、砂利その他の資材を用いて透水層を設けなければならない。

宅地造成等規制法施行令

切土や盛土で急斜面を造ったら、 コンクリートか間知石練積みで擁壁を造れ ってこと(規模によるけれど)そして、その擁壁には透水層を持った水抜き穴を設けろ というのがこの法律の趣旨。

「練積み」というのは、石積みをする際、接着剤としてコンクリートやモルタルを使って、各部材を一体化しながら積み上げる工法です。もちろん当時はコンクリートやモルタルはありませんので、この法令の対象外にはなるのですが、要は「ぴっちり積んじゃうと、背面の水をどう排水するか考えないと崩れる恐れがあってヤバイよ」と言うことです。

ぶっちゃけ、野面積の場合は石垣の間が隙間だらけなので、雨が振っても隙間から水が抜けて石垣が崩れることは少ないです。日陰側の石垣では、抜けた水を頼りに苔がびっしりはえています。(日向側でも石の隙間には生えているはず。)

んでも、石同士がピッタリあうよう加工された切込接の場合、石垣の規模や想定降雨量によっては、水抜穴を設けるか、石垣裏に水が浸透しないような工夫をしないとヤバいんちゃうかなとか思って見てたりします。ま、上に建物が立っていて、石垣内部に水が浸透しにくい場所ならば、それほど問題はないのかもしれませんが。

排水を工夫した一例です。あと確か、名古屋城の石垣には水抜き穴が設けられていたような。

高知城があるのは、高知平野のほぼ中央に位置する標高約44メートルの大高坂山。高知平野は中世までほぼ内海で、水害が繰り返されてきた地域でした。現在も、高知県は年間降水量が全国でも1、2位を争う多雨地域です。

そのため高知城では排水が工夫され、各曲輪からの排水が石垣に直接当たらないよう、石製の樋を通じて地面に落ちるように設計されています。どの城にも排水設備はありますが、高知城の石樋は大きく、数が膨大。地面に設けられた水受けの敷石も、瓦を敷いた他城の水受けなどと比較するとかなり大きく頑丈です。地盤が螺旋状になっており、城内に降った雨は三方に分かれて伏流しているそうです。

“秘策”が満載!高知城の雨対策や「独自工法」が生み出す躍動感

美観面から考えれば、水が石垣に直接当たらないよう という表現も正しいのでしょうが、排水処理として考えるなら、表面排水を充実させ内部浸透する水を減らした というのが本質かと思いますが、違うかな。

小諸駅周辺も覗いてみましたが、なかなか寂れてます。

もう地方は車社会ですから、商業の中心は国道沿いに移っているし、小海線やしなの鉄道を利用する観光客もそれほど期待できないでしょうから、致し方ないところかもしれません。

そもそも、小海線ってなんのためにあるんだっけ?乗り鉄の聖地?

鉄道とは本来、人がたくさん住む場所での通勤通学のため、物資を効率よく輸送するため、遠くの大都市と大都市を結ぶために開通することが一般的です。
しかし、小海線は、大都市と大都市を結んでいる訳でもなく、人がたくさん住んでいる場所なんて全然通りません。なぜこんな山奥に鉄道が開通したのでしょうか。


答え:静岡と直江津を結ぶ壮大な計画があった


長野県と山梨県の山奥を走る小海線。最初は日本列島を縦断し、静岡と直江津を結ぶという壮大な計画がありました。

小海線の前身となる路線は、大正4年(1915年)、佐久鉄道株式会社によって立ち上げられました。当時の名前は佐久鉄道です。開通当初は、小諸駅~中込(なかごみ)駅を結ぶ訳13kmの路線でした。
大正8年(1919年)には、小諸駅~小海駅が開通します。
一方、この年に第一次世界大戦が終結。その後、日本は不況に陥り、(いわゆる線戦後恐慌)佐久鉄道は厳しい環境に置かれることとなります。
その後、佐久鉄道は延伸するなく、昭和9年(1934年)に政府により買収され、日本国有鉄道の一部となります。


現在では、身延線(富士駅)~中央東線~小海線~しなの鉄道線~北しなの線~妙高はねうまライン(直江津駅)と乗り継ぐことで、太平洋から日本海を縦断する路線の一部となっています。

【小海線】人口が少ない長野県の山間部に鉄道が開通したのはなぜ?