岡本要八郎

誰だ?それ。 実は僕もつい最近まで知らない人でした。でも最近、この人の足跡?に二度当たったので、なんか縁のある人やな〜ってことでご紹介。

足跡①

僕は5月に台湾旅行に行きました。んで、台湾の北投温泉に行ったんです。「観光地としての台湾の魅力」その時の記事にこう書きました。

北投温泉で宿泊。余談ですが、北投温泉は、戦前に日本人が温泉街として整備したみたいです。「北投石」の産地でもあります。

この 「北投石」 を発見したのが、岡本要八郎さんなんです。その時の記事ではメインの話題じゃなかったので言及してませんでしたが。北投石についてはこれを読んでね。まあ、珍しい鉱物です。

北投石(ほくとうせき、英語: hokutolite)は北投温泉で発見された鉱物で、学術的には独立種とはいえず「含鉛重晶石」と呼ばれ重晶石の亜種として扱われる。世界でも台湾台北市北投区の北投温泉と日本秋田県の玉川温泉からしか産出しない。

1905年(明治38年)に地質学者岡本要八郎が台北州七星郡北投街の瀧乃湯で入浴した帰りに付近の川で発見した。

北投石(wiki)

足跡②

最近、西尾市に県指定「青鳥山自然環境保全地域」ってのがあることを知ったので、現地へ行ってきたのです。なんでこんなところに、自然環境保全地域があるんだろう?って。

珍しい生物がいるってわけではなく、地質的に珍しいからだそうです。その割にゴルフ場開発されちゃってるけど。 はんれい岩の間に、両家閃緑岩類が貫入してて珍しいそうな。 ま、石はさっぱりわかりませんが、愛知県のパンフレットによると、八幡神社の塀の石垣で観察できるそうです・・・へーえ・・・

これかな?
これかな?

と、とりあえず石の話は置いといて、そのパンフレットにこんな一文が。

保全地域の現状は、必ずしも地質の観察に適した状況とは言えませんが、かつて小学生の頃にここで鉱物を採取して感動し、やがて地質学者となった西尾市出身の岡本要八郎博士のような方もみえ、歴史的にも学術的にも由緒ある地域として、自然環境保全地域に指定され保護されています。

はい、岡本要八郎さん再び出て来ました。しかも「西尾市出身」って書かれてますよ。がぜん親密感が増した! でも、wikiだと「愛知県中島郡(現・一宮市)出身の地質学者」って書いてありますね・・・

調べてみると西尾市と関りがあるのはマチガイないのですが・・・?

「岡本要八郎先生は愛知県西尾の御出身で、郷里で小学教員をつとめておられるころ、近くの青島山というところで緑柱石を拾い、それが機縁で鉱物に興味をもたれたという。明治32年台湾に渡られ、教鞭をとられる傍ら、台湾産の鉱物を調査され、台北近くの北投温泉から北投石を発見された。

櫻井欽一「我が師を語る」(12)岡本要八郎

ネットで調べた限り、正確かはわからんけどこれが一番詳しそう・・・台湾版wiki?

岡本要八郎(1876年1月13日-1960年),日本愛知縣中島郡(日語:中島郡_(愛知県))(今一宮市)出身之教育家、礦物學家,以在臺灣採集礦物而聞名,為北投石、大屯硫之發現者,在新北投善光寺有紀念其之「岡本翁頌德碑」。

岡本氏為日治時期第一任台北市尹武藤針五郎之弟,後過繼給三河國士族岡本多丸翁作為養子,因其為第八男性子嗣故以「要八郎」為名。小學就讀於西尾高等小學,中學就讀三重縣尋常中學。岡本氏自中學畢業後便於西尾尋常小學任教,後因武藤針五郎來臺之影響,故響應台灣總督府招募・・・

岡本氏於13歲時便受西尾小學飯田校長之影響對礦物有興趣,並於明治31年(1898年)21歲時發表《愛知縣幡豆郡礦物誌》。來臺後則於明治33年(1900年)角板山旅行後開始從事台灣礦物研究,發表許多礦物圖鑑及文章,成為台灣礦物採集先驅及稀有元素礦物、放射性礦物權威。・・・

wikiwand 岡本要八郎

櫻井さんの話と総合すると、一宮市で生まれ西尾の岡本さんのところに養子に入った。高等小学校時代もしくは小学校教員時に校長の影響を受け、青島山で見つけた鉱石をきっかけに岩石に興味を持った。西尾高等小学校を卒業し、三重の中学校を出て、西尾尋常小学校の教師になってのち、台湾に渡った。 台湾に渡ってからも鉱物の研究をし、多数の研究を発表した、放射性鉱物の権威!

生まれはよくわかりませんけど、西尾に縁ある人なのはマチガイないすね。西尾の妙満寺にお墓もあります。(確認してきました)

おそらく岡本家の現役の墓地なので、墓石そのものは撮影していません。けど墓碑には(分家)岡本要八郎 って書かれていますし、石灯籠は各石材に読めただけでも「台湾」「朝鮮」「福岡」「幡豆」(産)と彫ってあります。こんな酔狂な石灯籠、鉱物学者のものでマチガイないでしょう。

福岡とあるのは、九州大学に勤めて暮らしてた関係ですかね。台湾wikiを見るに、どうも岡本さんの専門は日本語(国語)教師で、鉱物学は独学だったようです。ですが台湾総督府殖産局やら殖産博物館で技手兼任ってことで、相当の実務経験と学識を積んでたのでしょう。で、大学教師に抜擢!

岡本氏於昭和14年(1939年)起九州帝國大學擔任理工學部之礦物學講師,並於昭和29年(1954年)受到日本礦物學會之推薦成為兩名榮譽會員之一。昭和33年(1958年)年以「日本産礦物之形態學研究」論文獲得九州大學理學博士學位,時年83歲。

wikiwand 岡本要八郎

最終学歴が「中学校卒」(当時は中学卒で十分高学歴ですけど)にも関わらず九州帝国大学の鉱物学講師なんて、どれだけ学者として優れていたか。残念ながらほとんど無名なんですが・・・てか83歳で博士号取得って、バケモンだな

「源氏とのゆかりが深い」三河国(+西尾)だけど、一時期「平氏にゆかりの深い」地だったかも?

以前にアップした文化財巡りの記事「西尾の文化財(16)  修法寺の銅像菩薩立像」において、 修法寺の隣にある高倉神社を紹介しました。

高倉神社の祭神は高倉天皇で、姫社には「平徳子」を祭るとあります。
平家の隠れ里ならいざ知らず、平氏関係者を祭るのは珍しいんじゃないでしょうか。 
先日行った一色赤羽別院のところに存在した 「赤羽根古城」は平安末期(1159)より平遠衡とその末裔が治めた と繋がるのかなあ。そこに住んでた平氏関係者が、少し離れた場所に二人を祭り(源氏の世の中に平氏を堂々と祭るのはさすがにヤバいんで、天皇と妃を祭った形)、あたりに関係者が住みつき、やがて村社となり現代に至る と考えたくなっちゃいますね。   ※「赤羽古城」についての参考記事 「一色の海を見に+赤羽散歩

以来、 成立由来不明とされる高倉神社の創建理由、赤羽古城を築城した言われる平遠衡 (鷲尾氏とも)と、高倉天皇および平徳子(建礼門院)との関係が気になっていたんですが、この地は一時期「平氏にゆかりの深い地」だったんじゃね? という妄想が浮かんだので、紹介します。

まず下の系図をご覧ください。

ネタ本:平成2年発行「赤羽郷土誌」 西尾市図書館  など

三家の系図を描いています。上から「天皇家」「堂上平氏」「伊勢平氏」の系図(関係分)です。※

赤羽城を築いたとされる平遠衡はオレンジ色、高倉神社に祭られた高倉天皇、平徳子が青色で表示しています。それから、 緑色で着色した人物は、 平氏で 三河国国司を勤めた(とされる)人物を表示しています。

系図は同世代の人物を縦に揃えて書いてあるので、着色した関係者たちは、まあ三世代(祖父〜孫)くらいの違いで同時代に生きてたんじゃないか と思われます。そして、 平遠衡はちょっと遠いんだけど、他の関係者は極めて近い婚姻関係を持っていることが分かるかと。

さらに、 退位して上皇になった高倉天皇は、平頼盛の屋敷で崩御しているのです。この 頼盛が三河国司経験者です。

ってことで、こんな妄想をしました。

三河国司を勤めた平頼盛の屋敷で亡くなった高倉天皇(上皇)。哀れんだ平氏一門はその霊を慰めるため、一門にゆかりの深かった三河国の沿岸部に神社を建てたのではないかと。そしてその後、 一門の悲劇の姫である彼の正妻も祭った。

妄想の根拠:三河は源氏にゆかりが深い土地とされているけれど、平氏が隆盛を極めたほんの一時期、平氏が源氏を駆逐して三河を統治していた可能性があるかと。

三代の三河国司に平氏がついていたこと、三河沿岸部も傍系の平氏一門が現地で抑えていたこと。 高倉神社にほど近い赤羽の地に平遠衡。 その他資料が残っているのは、 1159年の吉良荘(高倉神社在地)には平弘陰という現地支配人 がいたこと。吉良荘に隣接する志貴荘は、1166年に平信範が所有していたこと。

参考:平氏と協力関係にありながら、最終権力争いで敗れた源氏の棟梁(源頼朝の父)が、尾張国で殺害されたのが1160年。頼朝により源氏が勢力を回復し弟である範頼を三河国司に据えたのが1184年。この間の約20年、平氏が三河国特に沿岸部をがっつり抑えていた時期ではないかと。

「沿岸部」と言ったのは、文化財を回るうち、西尾とその周りの地域が伊勢地域と結びつきが強いことが見えてきたからです。それもしばしばそれぞれの地域を避難所みたいにして使ってるんですよ。 (伊勢は平清盛の属する「伊勢平氏」の根拠地です※。)   

西尾の志葉都神社のある盆地は「角平御厨」、隣接する幸田町の蘇美天神社のある盆地は「蘇美御厨」と呼ばれる伊勢神宮領だった

建稲種命を取り巻く話題(志葉都神社・蘇美天神社)

徳川家康の祖父、松平清康(在岡崎城)は1535年尾張国へ攻め込みますが、家臣に暗殺されます(守山崩れ)。残された子、広忠(10歳)。広忠は織田と結んだ一族に裏切られ城を追われ、縁戚の東条吉良氏・持広を頼ります。持広は広忠を伊勢にかくまうと共に、東条吉良氏の後ろ盾である今川義元に庇護を依頼します。今川義元は1540年に広忠を一旦西尾の室城へ入城させ、その後岡崎城へ帰還させます。

西尾の室町・戦国時代

西尾浄名寺の円空仏

この円空仏、もともと伊勢国にあったそうですが、明治時代の廃仏毀釈の時期に、三河の地に逃れて来たようです。(西尾市指定文化財)

西尾の文化財(26) 寺津散歩

戦国の頃、織田信長が三河諸寺を焼き払ったとき、その家臣である高山右近に薬師寺も焼かれちゃいました。

時の住職は本尊の薬師如来を畑に埋め、伊勢に逃げて身を隠していたそうな。

ある夜、「古里へ帰れ」と夢にお告げがあり、帰ろうと船に乗ったところ、なんと本能寺の変で伊勢から三河へ帰る徳川家康と同船だったそうな。んで、三河の港に着いた時、北に光る場所があったんだと。

不審に思った家康は、住職に「調べろ」と命令。住職が調べたところ、それは自分が埋めた薬師如来を埋めた畑だったげな。 家康は「これは幸先がよい!」と大いに満足し、お堂を建てたんだそうな。

西尾の文化財(25) 鎌谷町蓮光寺 薬師如来坐像

※ 「堂上平氏」と言うのは、高棟王を家祖とする平氏で 高棟流ともいいます。代々お公家さん(堂上)です。平氏で有名なのは、平清盛の一族なんですけど、こちらは 高棟王の兄弟、高見王を家祖とする 高見流平氏です。清盛(系図では太字で表示)から5代前の「平維衡」さんが伊勢国(現在の三重県)をこの家の根拠地として整備していたので、「伊勢平氏」とも言います。こちらは武家の家柄です。

系図を見ると、 「堂上平氏」 と 「伊勢平氏」 はずいぶん古くに分かれた一族なんですけど、平清盛の活躍した時代の平時信さんは、娘の一人を天皇に、もう一人を清盛に嫁がせ、「両権力者に保険を賭け、うまく栄達した」んですね。平氏の栄華をたたえる「平家にあらずんば人にあらず」という言葉がありますが、言ったのは清盛の直系の一族ではなく、 「堂上平氏」 である平時忠です。

両張りの効果もあったのか?この家系は、 志貴荘を所有していた平信範の子孫が「壇ノ浦で平家が滅んだ」後も、 高棟流平氏・公家として生き延びました。