「西尾が六万石の城下町だった」って本当ですか?

質問を頂きました。確かに、大都市「岡崎」が五万石だったのに、西尾に六万石も土地があるのかな?って思いますよね。

短いお答え・西尾藩は確かに六万石あったので、「六万石の城下町」で正しいです。ただし、西尾にあった領地は多い時で三万石程度。西尾以外の領地と合わせて六万石でした。

長い答え・西尾藩が六万石だったのは、江戸時代中期(1764年)に大給松平家が領主として来てから明治維新(1868年)までの5代100年あまりの時代です。それまでは二万石~三万五千石程度の領主が、短い期間で変わっていました。

参考図として、江戸時代前期の西尾の領有図を載せておきます。(2023年西尾資料館 「家康と西尾」展資料)

んで、大給松平家が治めた時代の、領地の変遷をグラフにしてみました。出典は、「西尾城 西尾藩」という資料です。そのまた原本は「西尾市史Ⅱ」と書かれていますね。

1764年山形から転封してきた西尾藩(大給松平家)の石高は63,916石。これを「六万石」と称します。この「称する石高」を表高と言います。

実際の石高は領地替えとか新田開発とかで少しづつ変わるんですが、大名の格式や軍役は一に石高で決まるので、コロコロ変えると大変です。だから表高は江戸初期に定められ、ほとんど変わりません。 六万石の大名を三万石しかない地域の大名に国替えしたい場合は、残り三万石をどこか別の土地に与えたのです※。

西尾藩の場合、63,916石のうち、三河国幡豆郡(西尾です)に26,916石。越前国に37,000石の領地を与えられました。

なんだ三河国より越前国の方が石高が多いじゃねーか。面倒だから越前国に城(藩庁)を造ったほうがよくね? ・・・とはいかないんす。新たな城は造れませんし、どこに居を構えるかは幕府に定められているから。それに三河は松平家発祥の地。格が違いますわなあ。

幡豆郡の領地は、その後も基本的に変わりません。一度検地?の影響なのか26,916石から29,640石に変更がありますが、幕末まで続きました。

幡豆郡以外の領地は結構変遷します。大給松平家は、老中にまでなれる有力譜代大名(5代のうち3代が老中を勤めた)でしたが、老中になるには、「寺社奉行」→「大阪城代」または「京都所司代」→「老中」というキャリアコースがあったんですな。

藩主がめでたく「大阪城代」か「京都所司代」になると、大阪(河内国か摂津国)に1万石程度の領地が与えられます。職場の近くに拠点を設けよってことですね。代わりに越前の領地が減らされます。そのあと老中になっても領地はそのまま。その藩主が死ぬと、大阪の領地は返納し、代わりに越前の領地が戻る仕組みのようです。同じ土地かはわかりませんが。

ただ、幕末近くになると、越前の土地がうまく用立てできなくなったんでしょうか?大阪の領地を返納して、代わりに愛知県内だけど幡豆郡以外の郡と、静岡県(遠州国と駿河国)に領地が与えられています。

大名とその家臣の立場からすれば、「あっちこっちに小さな領地が分散していると、統治が大変なんだけどな〜」まあ、幕府としてみれば、「知ったことじゃない」ですけど。

幕末に老中になった松平乗全君は、井伊大老のもとで老中をやってたのが悪く評価されたようで、老中を免職になってから領地が一万石減らされました(1862)。上のグラフでは出てきてませんが、きっと静岡県にあった領地が没収されたんでしょう。

そして明治維新のあと、なぜか千葉県(安房国)に少し領地を貰い、最後の石高62,600石で廃藩置県を迎えます。この時は三河国幡豆郡(西尾です)に29,660石、三河国(幡豆郡外)6,596石。越前国に21,154石、安房国に5,190石でした。

この期間、越前国にずっと西尾藩の飛び領地がありました。増減はあるけれど、最大37,000石分。本領より大きい飛び領地を治めるため、長い期間、多数の西尾藩士が派遣されていたことと思われます。

それが福井県越前町(旧朝日町)。町内には西尾藩の古文書が展示されている陣屋の里や実相寺、八坂神社中門など、西尾藩統治の面影を残す場所が点在している(西尾市役所HPより)そうです。

この縁もあって、西尾市は福井県越前町と友好都市提携しているのです。

※表高に対して格式や軍役(大名行列もその一つ)が課されるんだけど、新田開発とかして実際の石高が上がっても、それはカウントされない。であれば、国替えしない大名の方が新田開発した成果を自家に残せて豊かになりやすいよね。

国替えがなかった大名は、外様の大大名に多いようです。加賀前田家、薩摩島津家、長州毛利家、仙台伊達家とか。一方で譜代大名はころころ国替えがあって大変でした。動かなかったのは、彦根の井伊家と庄内の酒井家くらいなもんじゃないかな

豪華な馬具と火縄銃の道具を見に行こう! 西尾市資料館企画展

西尾城跡にある西尾歴史資料館へ行ってきました。6月1日まで開催している企画展「侍ー戦いの装い」を見るためです。 月曜休館午前9時から午後5時まで。無料。

鎧兜や刀剣の鍔なんかが飾ってありますが、僕の目的は、展示品の中にある「瀬門神社の馬具」を見ること。それから火縄銃の道具で、めずらしいものがあったのでご紹介します。 写真禁止なので、文書だけだけど (フラッシュ禁止で撮影させてほしい!)

①瀬門神社の馬具

瀬門神社と言うのは、西尾市吉良町にある神社です。由緒はよくわかっていませんが、源頼朝が、奈良東大寺の再建のため上洛するにあたり参拝、本殿を修復した そうです。その後、徳川家康が、近くの東条城攻略のため戦勝祈願した とか有名人の名前がちらほらする古刹。場所は吉良町瀬戸。地元的には「アイシン高丘工場の南」

この神社は秋の祭礼で馬駆けをやるそうで、馬具が愛知県の重要文化財に指定されています。祭礼の時以外は見られませんが、この企画展に出されています。

見てびっくり。すごく豪華な工芸品じゃないの!

企画展のチラシより

チラシ右下に出ているのが、室町時代(永禄二年)の鞍「梨字地沢潟紋蒔絵鞍」です。 鞍(くら)は馬の背に載せて人が跨るもの。木製だと思いますが「蒔絵」というぐらいですから、漆塗りに金粉を「蒔く」ことで絵を描いている大変高価なものです。

左上は、それと対になる鐙(あぶみ)です。あぶみってのは、鞍から垂れ下がり、人が足を載せるところですな。こちらは江戸時代の「雲雨紋象嵌鐙」と言います。足が載る部分に光沢をもつ貝殻がちりばめられていますから、象嵌(ぞうがん)の一種「螺鈿(らでん)細工」が施されている、やはり高価なものです。

螺鈿・・・貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠層の部分を切り出した板状の素材を、漆地や木地の彫刻された表面にはめ込む手法、およびこの手法を用いて製作された工芸品のこと。螺は貝、鈿はちりばめることを意味する。

他にも数点、瀬門神社の鞍と鐙が展示されています。馬駆神事は三ヵ村の共同行事なので、村々で競い合って豪華な馬具を造ったんでしょうが、それにしてもすごい立派な工芸作品です。どこから金が出てるんだろ?

※瀬門神社は、吉良上野介の領地の北端に位置しますから、スポンサーは吉良家かなあ??

まあその詮索はともかくとして、立派な工芸品ですし、見るのは無料なんでおススメです。ただね、せっかくいいものを展示するんだから、きちんと展示品解説をつけてほしいよね。資料館なのに、なーんにも説明されてないんだもん・・・。喝!

②火縄銃の道具

火縄銃そのものも展示してありますが(たしか常設展でも)、みて珍しかったのは「早合」という早く銃を撃つための準備弾? が展示してあったこと、「雨覆い」という、火縄銃の火縄を雨から守る道具が展示してあったこと。(うーん、マニア💛)

火縄銃ってのは撃つのが大変面倒なんですね。順番を説明すると

  1. 銃口(銃の先端)から火薬を挿入
  2. カルカという銃に付属した棒で火薬を奥底まで押し込む
  3. 銃口から鉛玉を挿入する。転がり落ちるのが心配な場合は、紙か布を押し込んで固定する。
  4. 銃床(銃の後部)の火皿に導火薬を口まで充填し、火蓋を閉める(引火防止)
  5. 火縄ばさみに、点火した火縄を挟む (これで射撃準備完了)
  6. 的とか敵へ照準を合わせる
  7. 射撃直前に火蓋を開け、火縄ばさみに連動した引金を引く(発射!)・・・引金を引くと火縄ばさみが火皿に落ち、火縄の火が導火薬に引火、それがさらに最初に詰めた火薬に引火し、その爆発力で鉛玉が飛んでいく
    モト画伯画「火縄銃」のしくみ(笑)

    ふう。こんな感じなんで「連射する」のは無理ですし、銃の先端から火薬を入れ「つき固める」作業があるんで、「腹ばいになったまま次の玉を打つ」ことすら困難です。

そこで「早合」の登場!これは和紙にあらかじめ火薬と銃弾を納めて、和紙の両端をひねって留めておくことで、銃口から入れてカルカで一度つけば、順番3.までが一気に終了する便利なものです。最も展示されていたのは紙が黒く塗られていたので、漆が塗ってあるのか?、実用品か?とは思いましたけど。

 

また、火縄銃の点火は文字通り「火のついた縄」で行うので、雨が大敵。そこで「火縄ばさみを含む部分を防水性の何かで覆ってやればいいんじゃね?」というアイディアが登場します。これが「雨覆い」です。 たぶん和紙で作られ、雨よけに漆が塗られています。しかし「大きな箱」なんで、照準を付けるのにめっちゃ邪魔になりそう。平和な時代の装飾品だったんすかねぇ?

余談1 海外から火縄銃がやってきて、貧乏日本人は見よう見まねで国産コピーを造ろうとしました。銃身は熱く熱した板金を丸め、帯金で補強して造りました。ここまでは日本刀の鍛錬技術でどうにかなったようです。しかし、尾部の栓がどうしてもできませんでした。これ、「ネジ」でとめるんですけど、雄ねじ(ねじ)はともかく、雌ねじ(銃身でねじが入っていく溝)をどう切っていくかが分からんかったらしい。んで、南蛮人に教えを請い、雌ねじを切る「タップ」という工具の技術を習得したそうな。

 

長い余談2 火縄銃は、(1)点火に火縄を使うんで取り扱いが面倒(2)発射した弾が直進せず、命中率が良くない(3)立って銃口から弾丸と火薬を入れ、棒で突かないと弾込が終わらない(先込式)=操作が面倒だし撃たれる可能性が増すから野戦に不向き という欠点がありました。

江戸時代の日本では銃の改良はご禁制だったので、銃の進歩はなかったけど、その間に西洋列強では銃の改良が進み、それぞれ解決策が見つかりました。

(1)火打石を使用する方法が発明される (その後雷管を使う形に)

(2)銃身内部に「らせん状の溝」を刻み、弾丸がこれを通って発射されることで回転がつき直進性が上がり、命中率をあげる方法(施条銃:ライフル)が発明される。当然、弾も火縄銃の丸鉛玉ではなくなり、今の弾丸のような流線形?にかわります。

今の銃はすべて施条銃ですが、施条銃から放たれた弾丸にはその銃特有のらせん傷がつきます。刑事ドラマで「弾丸の施条痕(ライフルマーク)を調べる」のは施条銃だから有効な調査なのです。火縄銃を凶器にした場合、滑腟銃なので施条痕がないんですね。ま、弾の形からすぐわかっちゃうけど。

(3)じゃあ、手元で弾込できるようにしよう(元込式)。火縄銃は「先込式」です。元込には銃身の強度を上げる技術開発が必要でしたけど。

んで、これらの改良された輸入銃が日本の戊辰戦争(1868〜1869)に流れ込んだってわけ。最も多い三種類は

  • ゲベール銃(1)の欠点を改良した火打石式先込滑腟銃 (オランダ製)
  • ミニエー銃(1)と(2)の欠点を改良した火打石式先込施条銃
  • スナイドル銃 すべての欠点を改良した火打石式元込施条銃(イギリス製)

※ミニエー銃にはミニエー銃(オランダ製)、エンフィールド銃(イギリス製)やスプリングフィールド銃(アメリカ製)を含む

幕府軍の主力はゲベール銃でミニエー銃もあり。薩・長軍の主力はミニエー銃。後半ではスナイドル銃も装備され、兵器の差は大きかったようです。そりゃ命中率とか効率とか、素人でも違うよな〜 って思うもんね。

参考文献:奥村正二「火縄銃から黒船まで~江戸時代技術史~」岩波新書

幕末期の小銃については、「幕末期の銃って買えるの?大河ドラマ『西郷どん』の変わった楽しみ」をどうぞ!(2018.05.27追記)