平坂 無量寿寺

久々にお寺巡りに出かけました。平坂北町にある、無量寿寺です。

宗派は真宗大谷派。今は特に有名なお寺ではありませんが、実は戦国時代有力なお寺だったんです。・・・戦国時代、三河、大谷派(本願寺派)・・・そう、三河一向一揆とかかわりがあったんです。

特別展 三州に一揆おこりもうす 安城市立博物館資料

桶狭間合戦後、三河国統一をめざす松平家康にとって最初の試練が、永禄6年(1563)におきた三河一向一揆でした。・・・この頃の西三河では、多数の道場を傘下におさめた本證寺、上宮寺、勝鬘寺の三河三か寺を中心に、本願寺直属の浄妙寺、慈光寺、願照寺、無量寿寺の四か寺を加えた七か寺が、本願寺の血縁者を住職とする本宗寺を支える大きな組織になっていました。
水運や商いにたずさわる門徒も少なくなく、経済的にも大きな影響力がありました。本宗寺や三か寺には「寺内」と呼ばれた区域があり、犯罪者の追跡・処罰や年貢米を集めるなどのために領主やその家臣が立ち入ることを断る特別な権利(不入権)もありました。

「三河三か寺」の一つである本證寺と三河一向一揆については、以前このブログでも紹介しました。続いて出てくる「無量寿寺」が、まさにこのお寺です。本願寺直属、三河三か寺に続く有力七か寺ですから、立派なもんです。

また、無量寿寺も「寺内」と呼ばれた区域を持ち(出典:愛知の史跡めぐり)、すぐわきの水路を南に下ると「平坂湊」がありました。平坂湊は、塩街道の一大拠点でしたから、まさに「水運や商いにたずさわる門徒も少なくなく」という状態だったと思われます。

境内にも、ひっそりとその当時の雰囲気を偲ばせるものがあります。鐘楼(鼓楼?)です。まあ、建物は割と新しそうでしたけど。

きちんと手入れされた松だね〜

寺の山号を調べてくるの忘れてしまったのですが、本堂脇の石碑に「羽塚山」とありました。「羽塚」という地名は現代も附近にあります(上の写真で言うと、平坂小学校の東側に当たる地域)ので、「羽塚山無量寿寺」で正解じゃないかと・・・

でも、無量寿寺ってのは知立と半田にもあったなあ・・・少し調べてみますか。

まずは「無量寿」から。

「無量寿」とは量りきれない寿命の意で、阿弥陀如来の意訳である。wiki無量寿寺

ってことで、全国にも同名のお寺はたくさんあるようです。

知立の無量寿寺は、臨済宗妙心寺派 八橋山無量寿寺といい、在原業平とカキツバタで有名な観光地です。半田の無量寿寺。真宗大谷派。あれえ、こちらの山号も「羽塚山」って言うみたい。同宗派で同じ山号寺号の寺が近くにあるって、不思議だよね。

ってことでネットサーフィンをしていると、名古屋にある魚山寺のHPに情報が載っていました。このお寺の開基は魚山寺釋堅了、俗名羽塚堅子と言うらしく。羽塚堅子と羽塚一統について情報が載せられています。

羽塚氏。たゞしこの羽塚という姓は、新姓で、僧籍にあるもの、明治以前は法名だけだったのを、明治にいたり姓をつけることとなった。その時の新姓で、羽塚とつけたのは、自分たちの先祖が三河羽塚の出であるからである。
成岩無量寿寺も山号を羽塚山という。その開基良善というのが、三河幡豆郡西条郷羽塚庄〔もと平坂(へいさか)村の内、今の西尾市内〕に草堂をしつらえ、天台宗だったのが、祖師親鸞聖人の巡?に逢い、転宗、この良善の頃、知多郡成岩(字、天王瀬古)にも一字を設け、三尾両国にわたって、教化に奔走した。無量寿寺という寺号は「今よりは三尾の両草堂を无量寿寺と名づくべし」と、祖師より授かったという。(『岩成町史』二六六頁。羽塚山無量寿寺縁起)

地図を見て分かるように、西尾市と半田市はすぐ近くなんですけど、昔の国名で言えば西尾市は三河国で、半田市を含む知多半島(中部国際空港のある半島)は、尾張国に属していたんです。だから本願寺派に転向した良善は「三尾両国にわたって、教化に奔走した」んですね。

縁起にある両無量寿寺の所在地(尾張国)知多郡成岩と三河国幡豆郡西条郷羽塚庄は、それぞれ現在の地名では愛知県半田市成岩本町と愛知県西尾市平坂町にあたり、共に現在も無量寿寺がそこに存在しています。「成岩無量寿寺山号を羽塚山という。」という記述もあるので、平坂にある無量寿寺の山号は「羽塚山」で良いようですね。

PS平坂の無量寿寺の境内には「皇紀二千六百年記念樹」碑が残っていました。これはこれで珍しいんじゃない?

参考:紀元二千六百年奉祝会の食事 (安城市立博物館の企画展・記事下のほう)

 

 

 

 

 

「西尾が六万石の城下町だった」って本当ですか?

質問を頂きました。確かに、大都市「岡崎」が五万石だったのに、西尾に六万石も土地があるのかな?って思いますよね。

短いお答え・西尾藩は確かに六万石あったので、「六万石の城下町」で正しいです。ただし、西尾にあった領地は多い時で三万石程度。西尾以外の領地と合わせて六万石でした。

長い答え・西尾藩が六万石だったのは、江戸時代中期(1764年)に大給松平家が領主として来てから明治維新(1868年)までの5代100年あまりの時代です。それまでは二万石~三万五千石程度の領主が、短い期間で変わっていました。

参考図として、江戸時代前期の西尾の領有図を載せておきます。(2023年西尾資料館 「家康と西尾」展資料)

んで、大給松平家が治めた時代の、領地の変遷をグラフにしてみました。出典は、「西尾城 西尾藩」という資料です。そのまた原本は「西尾市史Ⅱ」と書かれていますね。

1764年山形から転封してきた西尾藩(大給松平家)の石高は63,916石。これを「六万石」と称します。この「称する石高」を表高と言います。

実際の石高は領地替えとか新田開発とかで少しづつ変わるんですが、大名の格式や軍役は一に石高で決まるので、コロコロ変えると大変です。だから表高は江戸初期に定められ、ほとんど変わりません。 六万石の大名を三万石しかない地域の大名に国替えしたい場合は、残り三万石をどこか別の土地に与えたのです※。

西尾藩の場合、63,916石のうち、三河国幡豆郡(西尾です)に26,916石。越前国に37,000石の領地を与えられました。

なんだ三河国より越前国の方が石高が多いじゃねーか。面倒だから越前国に城(藩庁)を造ったほうがよくね? ・・・とはいかないんす。新たな城は造れませんし、どこに居を構えるかは幕府に定められているから。それに三河は松平家発祥の地。格が違いますわなあ。

幡豆郡の領地は、その後も基本的に変わりません。一度検地?の影響なのか26,916石から29,640石に変更がありますが、幕末まで続きました。

幡豆郡以外の領地は結構変遷します。大給松平家は、老中にまでなれる有力譜代大名(5代のうち3代が老中を勤めた)でしたが、老中になるには、「寺社奉行」→「大阪城代」または「京都所司代」→「老中」というキャリアコースがあったんですな。

藩主がめでたく「大阪城代」か「京都所司代」になると、大阪(河内国か摂津国)に1万石程度の領地が与えられます。職場の近くに拠点を設けよってことですね。代わりに越前の領地が減らされます。そのあと老中になっても領地はそのまま。その藩主が死ぬと、大阪の領地は返納し、代わりに越前の領地が戻る仕組みのようです。同じ土地かはわかりませんが。

ただ、幕末近くになると、越前の土地がうまく用立てできなくなったんでしょうか?大阪の領地を返納して、代わりに愛知県内だけど幡豆郡以外の郡と、静岡県(遠州国と駿河国)に領地が与えられています。

大名とその家臣の立場からすれば、「あっちこっちに小さな領地が分散していると、統治が大変なんだけどな〜」まあ、幕府としてみれば、「知ったことじゃない」ですけど。

幕末に老中になった松平乗全君は、井伊大老のもとで老中をやってたのが悪く評価されたようで、老中を免職になってから領地が一万石減らされました(1862)。上のグラフでは出てきてませんが、きっと静岡県にあった領地が没収されたんでしょう。

そして明治維新のあと、なぜか千葉県(安房国)に少し領地を貰い、最後の石高62,600石で廃藩置県を迎えます。この時は三河国幡豆郡(西尾です)に29,660石、三河国(幡豆郡外)6,596石。越前国に21,154石、安房国に5,190石でした。

この期間、越前国にずっと西尾藩の飛び領地がありました。増減はあるけれど、最大37,000石分。本領より大きい飛び領地を治めるため、長い期間、多数の西尾藩士が派遣されていたことと思われます。

それが福井県越前町(旧朝日町)。町内には西尾藩の古文書が展示されている陣屋の里や実相寺、八坂神社中門など、西尾藩統治の面影を残す場所が点在している(西尾市役所HPより)そうです。

この縁もあって、西尾市は福井県越前町と友好都市提携しているのです。

※表高に対して格式や軍役(大名行列もその一つ)が課されるんだけど、新田開発とかして実際の石高が上がっても、それはカウントされない。であれば、国替えしない大名の方が新田開発した成果を自家に残せて豊かになりやすいよね。

国替えがなかった大名は、外様の大大名に多いようです。加賀前田家、薩摩島津家、長州毛利家、仙台伊達家とか。一方で譜代大名はころころ国替えがあって大変でした。動かなかったのは、彦根の井伊家と庄内の酒井家くらいなもんじゃないかな