尾張の武将なのに、なせ織田「上総介」信長って言うの?

要点

  1. 信長は「上総介」という官職を自称していた。ドラマに取り上げられやすい「桶狭間の合戦」(VS今川義元)の時代と重なり、ドラマなどで上総介信長と登場してくることが多い
  2. 「上総介」は今の千葉県あたりにあった「上総国」の副知事職。知事は「上総守」だけど、上総守は皇族が任命される名誉知事職なので、副知事の上総介が実質的な知事に相当し、皇族を担いでいる分国なので、上野介は、他の知事職(○○守)と同等かむしろ格上という見方もあった。
  3. 信長が「上総介」を名乗ったころは、まだ尾張国を統一していなかったので、「尾張守」は名乗れなかったと思う。でも遠くにある関係ない国の副知事職なら、名乗ってもとりあえず近隣諸国からクレームは来ないだろう。
  4. のちに「尾張国」を統一し、知事職である「尾張守」を自称していた時期もある。けど、次々新しい領土を獲得し、新しい職名を名乗っているので、僕らは尾張守信長 や 三介信長 にはなじみが薄い
  5. 歴史を遡ると、室町時代の「上総介」に吉良氏の先祖が何人か就いている。その時代の吉良氏は三河国守護だった。でも戦国時代には勢力が衰え、吉良氏分家の今川氏が本家を抑え三河国を支配。 織田氏と今川氏はたびたび戦を交えており、信長の初陣も三河にいた今川氏を相手に戦った。 信長は今川への対抗上、三河を攻める理由付けとして、吉良氏の先祖も任命された「上総介」を名乗り、人々の記憶にある「上総介」ってそういや・・・ というPR効果を狙ったのではないか?

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信長の出身は尾張国だから、「尾張守」を名乗るなら意味わかるんだけど、どうして上総国(千葉県の一部)、しかも「守」じゃなくて「介」って?

と質問を受けました。なかなか興味深い質問です。僕なりのお答えはこちら。

信長が上総介を名乗ったのは、天文18年(1549)年、信長16歳で、斎藤道三の娘濃姫と結婚した前後からと言われています。

当時、官位は朝廷に任命される正式なものと、「私称」するものとがあったのですが、信長の「上総介」は後者。勝手に名乗っちゃう。

このころ、信長の父である織田信秀は存命しています(ただし晩年)。トウチャンは応仁の乱で焼けた御所の築地塀に破格の大金を献上したりして朝廷の覚えもめでたく、「弾正忠」という官位を朝廷に任命されていました※。

とすると、息子である信長も、父の死後弾正忠を金で買えばいいんじゃね?それはしていません。のちの永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて上洛した際(35歳)に、正式に「従五位下弾正小忠」に任命されるまでは、「上総介」→「三介」→「尾張守」を私称します。

信秀・信長の家は、当時有数の貿易港である津島を抑えており、官位を買う金は十分ありました。ただ官位をもらうには若すぎたかも。さらに商才をもち合理的な信長は、官職を買うのに大金を使うより、その金を軍備に回して早く尾張一国を統一したいと思ってたんだと思います。

つまり「上総介」を名乗った時点では、尾張国を統一しておらず、尾張国国主である「尾張守」は、さすがに名乗れんのです。

じゃあ、なんで「上総国」を選んだんだよー。

うー。

当時の信長(あるいは信秀)の野望は尾張統一ですが、敵は織田一族だけじゃありません。北の斎藤道三は、娘を嫁にもらってとりあえず抑え、最大の外敵は東の今川氏です。

信長君の初陣は、この今川軍の最前線に侵入して放火して無事帰ること。風の強い日に三河の国の吉良と大浜に侵入して放火! 軍勢は800くらいで、当時今川駐屯軍が3000くらいいたそう。放火して、幡豆の山中に野営して追撃する今川勢をやり過ごし、翌日無事に那古野城へ帰ったそうです。

『信長公記』

織田三郎信長御武者始として、平手中務丞、其時の仕立、
くれなゐ筋のづきん・はをり、馬よろひ出立にて、
駿河より人数入置き候三州の内吉良大浜へお手遣、所々放火候て、
其日は野陣を懸けさせられ、次日那古野に至りて御帰陣。

元々三河の守護は吉良氏だったんですけど内部抗争して弱体化。駿河・遠州の守護だった吉良氏の分家の今川氏が戦国大名として勢力を伸ばしていたんですな。

で、この吉良氏は足利長氏が吉良氏初代でを名乗り、以降吉良満氏、吉良貞義・・・と続いていくんですけど、この三代が皆「上総介」に任じられているんですな。

ここから先は想像ですけど、信長・信秀は「上総介」を名乗ることで、次のようなと選挙公約を打ったと思うんです。

「昔三河国を治めてたのは吉良氏でしたよ。今は今川氏が治めているけど、分家に治められるなんて面白くないでしょ。それだったら、対抗馬として織田氏を支持しませんか?織田氏は吉良氏ご先祖の官位を名乗ってるくらいですから、吉良氏への配慮を忘れませんよ!!」

まあ、いろいろあって、三河国は同盟者の家康君が領有することになって公約は守られなかったけど(笑)。それでもPR効果を狙うため、みんな公約を掲げますよね。

それからね、なんで「上総守」じゃなかったか。律令国家の分国の行政官として中央政府から派遣される役人は、上から「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」とありました。

上総国で一番偉いのはもちろん「上総守」なんだけど、律令国家体制ができたとき、上総国は、常陸国・上野国とともに大国に指定されました。しかもこの三国は、皇族が国司を務める国(親王が国司を務める親王任国)とされました。もちろん皇族がはるばる東国の任地に赴くことはなく(遙任といいます)、国府の実質的な長官は「上総介」だったのです。だから、上野介、常陸介、上野介は、他分国の守(かみ)と同等か、むしろ皇族を担ぐ分国だから格上 と見なされたのです。

この3国の北は陸奥国。あるいは「みちのく」(東山の最の国)で、時によって鎮守府が置かれたりする特異な国です。続く3国は辺境の重要国だったんですね。だから天皇の息子「親王」が治める大国に分類されたのです。

西洋で言う、辺境伯のような概念だね。(wiki)

元来はフランク王国が、国境付近に防備の必要上置いた軍事地区(マルク(Mark):辺境地区、辺境伯領)の指揮官として設けられた地方長官の名称である。異民族と接しているため、他の地方長官よりも広大な領域と大きな権限が与えられており、一般の地方長官である伯(Graf, count)よりも高い地位にある役職とみなされていた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた (wiki 親王任国)

基本的に官位相当は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。(wiki 国司)

ってことで、大国の介は同格なんだけど、名前は国主じゃなく次官ですから、まだ尾張国を統一していない信長さんには、適当な肩書じゃないでしょうか。

(最初はこの慣習を知らなくて、「上総守」って書いた書状も残っているそうです。そのうち間違いに気づいて「上総介」に降格しました(笑))

ついでに。忠臣蔵で悪役として描かれる、吉良義央は、一国を治めることもできる「大名」より小さな旗本(三千石級)ながら、「従四位上・左近衛権少将、上野介」に任じられています。普通の大名の官位は頑張って従四位下ですからそれを超えたうえに、実質国主格。そりゃ得意満面。「浅野家なんて目じゃないわ」と思っても仕方なかったのかもしれませんなぁ。

閑話休題。その後の信長君は、尾張の国を統一してからは尾張守を私称。岐阜を手に入れたら三介。これは正規の官職じゃないと思うけど(偉くなさそう)、意味はわかりますね。そう、先ほどの親王任国「三国」の「介」兼務っていう意味で、一国の国主を超えてることを表してます。

後日訂正。順序としては、上総介→三介→尾張守のようです。また上総介と尾張守はほぼ確実ですが、三介を名乗ったかどうかはやや怪しい。 すいません。

ちなみに家康は、永禄9年(1566年)三河国を統一し、朝廷から従五位下三河守に任じられ、同時に「徳川」に改姓しました。 その時信長は尾張守を私称。永禄11年(1568)に「従五位下弾正小忠」に任ぜられるまで、官位の上では家康が優位に立ちます。しかし力関係はご存知の通り。 官位と実力はそんな関係でございました。

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※朝廷側からすると勤皇ですが、信秀側としては、「権威からのお墨付き」が欲しかったんだと思います。

当時の尾張国は、守護として「斯波氏」(足利一門・三管領を務められる名門)がおり、その下の「守護代」として織田氏がいました。もっとも守護は名目だけであんまり実権力はありません。その下の守護代織田家は分裂しており、織田伊勢守家が尾張八郡のうち上四郡を、織田大和守家(ともに私称)が下四郡を支配する構造でした。

織田信秀は大和守家の分家で、大和守の家老にすぎなかったのですが、武力をもって事実上尾張下四郡を治めてたんです。ただし統治の正当性には欠けるんで、ちゃんとした官位をもって権威づけしたかったんだと思います。「俺は私称じゃないちゃんとした官位がある身分だぜ!」

あ、でも「弾正忠」って中央政府の役人で、地方に派遣された役人じゃないのよね。地方である尾張で、どの程度キキメがあったのかねえ?

書評 「太平記読み」の時代

若尾政希「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構想 を読みました。 この本、何かの書評で見つけて長らく積読になってたのですが(読みにくいんで・・・)、 実に面白かった!

まず「太平記読み」って言葉がなじみ無いす。これは「太平記」を詠む という意味ではありません。この本では、太平記に出てくる人物や事件を批判・討論した「太平記評判秘伝理尽抄」を講釈すること と定義しています。

「太平記評判秘伝理尽抄」って、この本を読む限り太平記を換骨奪胎したケシカラヌ本。私の印象としましては、この本の著者はマキャベリあるいは韓非子でしょう。つまり「為政者読むべし、庶民読むべからず」タイトル通り「秘伝」にすべき危険思想本でございました。なにせ「理尽抄」の要点は「武略の要術・治国の道」を説くってんだから(笑)。「太平記」って軍記物だぜ? (例をあげると、「太平記」では名将の楠木正成。「理尽抄」では名将かつ理想の為政者として描かれます)

この時代、宗教の持つ権力って大きく、政治とも複雑につるんでおりました。桓武天皇は一説に奈良仏教と縁を切りたくて平安京に遷都したんですが、やっぱりつかまっちゃったのね。この本の言葉でそれを表すと「仏法王法相依論」というらしいです。

比叡山の僧兵って聞いたことあるでしょ?この人たち、何か気に食わぬことがあると神輿を担いで都に雪崩れ込み(強訴)、時の権力者白河上皇(こいつも相当なタヌキジジイ!)が「ワシでもどうしようもないものが三つあってな、賀茂川の水、双六の賽、山法師」と。「あいつら手に負えんけど、宗教には手ぇ出せんわ」 っちゅうのが中世。

で、マキャベリ「理尽抄」はこう言うのだ。

あいつら学問もせん、くそ坊主や。世俗権力(足利尊氏)はあいつらタタキ殺して、学問に励む学僧に寺を取り戻さなアカン。

そう書いてあるんだよぉ。ちょっと関西弁で意訳しただけ。・・・ じゃあマキャベリさん、あんた宗教や学問、主従関係についてどう考えてるの?

領主は法に依って国を治める。だが法による強制だけでは、民は道を知らないので、ここに宗教の出番がある。僧は民衆に対する教化・教導を行い民に道を教え、領主の治国を補佐するもの。だから領主は「神も仏もないわ!」と言ってはいけない。後世を願い神仏を崇めなければいけない。これは民に道を教える方便なんだから!だけどね、この「方便」ってこと、愚かな者に講釈すれば悪影響が出ちゃうから、人物を見極めて講釈するんだよ。

儒学、神道や仏教だって世渡りの道具にすぎん。ぶっちゃけ聖人や釈迦すらも功利主義を免れんのじゃ。学問や宗教で私欲の心を根絶するのは不可能。修己は「世のため人のため、国を利するため」行為することを通じてのみ可能。そのように導くのが儒仏神の学問。学問の目的は人情に通じ、それらを戦場では相応の謀(ハカリゴト)として、政治においては相応の治国として現実に生かすこと。

が、誉れ高い学者が必ずしも有能な為政者ではない。そういう人たちは世の動きや人心の機微に疎い事が多い。だからそれらは読み書きを聞くために養いおけばよろしい。これが「器によって人を使うってことだ!」

主従ってのは功利的なもん。主君と家来は恩と忠で、領主と民は撫民と年貢の関係なのね。あと、それより上位に「国(あるいは天道)」みたいな概念があって、主君も家来も領主も民も、それに忠を尽くさないかんのじゃ

まじすか~?。マジ。要約して桃尻語訳してるけど、そう書いてあるんだよぉ。ここにあるのは政教分離論であり、仏教なんて治国の方便だもんね って言う超近代的合理思考じゃないすか。

実際に 織田信長の比叡山焼き討ち、石山本願寺(一向宗)との血みどろの戦い、徳川家康においては三河一向一揆との戦いを経て、寺院諸法度や寺請制度で政教分離と宗教が政治の元に置かれるようになり、支配地も「一所懸命」から「藩は公器、法人。」と見るように変わっていったんだよね。(司馬遼太郎「この国のかたち」1 「藩の変化」)

が、思想として主従を露骨に功利的に捉えるってのは、まあ時代的はちょいまずいね。本でも

朱子学者曰く「主従関係は功利ではない!「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」を自覚するのが、真の武士、またそれを自覚するために学問をするのじゃ! って反論してるもん。

これが幕府推薦の朱子学(支配者に都合がよい)。大っぴらに言うと睨まれますわ。

まあ、これらの思想が、山鹿素行や熊沢蕃山、安藤昌益につながり、発展していき、また金沢藩(前田綱紀)や岡山藩(池田光政)の治世に影響したということが論説してあります。ふむふむ。

そうか、この思想が池田光政(幼名「新太郎」)に影響したのね。

以下私の妄想。根拠なし。

池田光政は、江戸初期の名君の一人です。 祖父は姫路城を築いた池田輝政。が、二代目の父親が早くに亡くなり、幼少の新太郎君が三代目を継ぎます。でも幕府「幼君では要衝姫路は任せられん!交換!」と10万石減らされて鳥取に配置換え(のち岡山へ)。 「俺が幼かったから、領地減って家臣が苦しむんだ」と新太郎少年は苦しんだ・・・かまでは分かりませんが、学問に励みかつ悩み、やがて名君と呼ばれるようになります。

もちろん名君として「撫民」を掲げ善政を敷き、閑谷学校を造り後世に観光地として残したり(笑。江戸初期に藩校造る、それも武士以外も可って珍しい。)するのですが、一方で寺院整理したり、不受不施派弾圧したり、朱子学でなく陽明学や心学を学び、幕府に睨まれたり(一時期謀反とのうわさも)、当時としてはラディカルでヤバいことしとる。  参考wikiと「少年少女人物日本の歴史 18 大名の生活」

これ、陽明学や心学、熊沢蕃山の影響って言われてますけど、僕は早くに父親を亡くした新太郎少年が、その時邪道を学んだんじゃね?」って思ってたです。彼の政策のある部分はかなりイッちゃってる。 ほら、三つ子の魂百までって言うでしょ。

陽明学だってヤバい面があるそうですが、まず朱子学を極めた者にしか教えちゃダメ ってのがお作法だったみたいですし、大人になって学んでそこまでラディカルにならんしょ・・・

でも、この本を若いころに読んでいたとするなら・・・こうなるかも!って納得した次第。