矢作川開削と下流域村々の変容

というタイトルの文化財展が、碧南市文化会館(中央公民館)で開催されているので見学してきました。 12月2日まで、月曜定休で開催中。朝9時から夜9時までやってるよ〜。

このブログのタイトルが「流域環境防災」と書かれているように、僕は河川が地域社会(と歴史)に与えた影響についてとても興味を持っているので、かなりいい展示でした!

と言っても、一部屋だけのミニ展示会であり、展示のメインは、下の10枚のパネルに集約されるのですが。(「撮影禁止」とは書かれてなかったので撮影しちゃったけど、著作権もあるでしょうから、これ以上の拡大は載せません。見に行ってください。 

時代を経るごとに、と言うか江戸時代初期(上右から2枚目)に矢作川の下流に1.3kmの放水路を開削したことで、下流の内湾がどんどん陸地化されていく様子を示したパネルです。

たかが10枚のパネル。でも、この「時代を追って矢作川下流域がどのように変化(主に新田開発による陸域化)したか」ということが、体系的に図示された出版物は見たことがありません。僕はそれを探していました、でも見つからないので、こんな感じだったんじゃないか?という妄想図を書いて(左のカテゴリー「西尾の地歴史」をご覧ください)いたくらいです。それがあると、歴史の流れが分かりやすく説明できると思うから。 このパネル、是非書籍化してほしい・・・

文化展では、同名の解説資料を貰えました。残念ながら10枚パネル図は含まれていないのですが(どうしても推定が多いので、学術的に載せるのは厳しいのかも・・・)、内容的にはとても充実していて重宝します。これを無料で配布してくれるんだから、碧南市さん太っ腹〜。(一家族一冊、先着1000名だっけ?だそうです)

流域の流れを冊子からまとめて箇条書きします。←は僕のツッコミと追記です。

  • 戦国時代以前の小島村、志貴野村下流の矢作川に堤防はなかった。網の目のように低地を幾筋にも分流していた
  • (現在の碧南市には内湾が広がっていた。その郡名である)「碧海郡」は美しい入り江の風景と碧い海からその名が付いたと言われる ←上記パネル右上「平安時代」を参照のこと
  • 1605年の矢作新川開削の規模は幅36m×長さ1310mで、開削規模から考えると、当時この掘割が矢作川本流になるとは想定していなかったのではないか←土木的にいえば、最初はたぶん「放水路」を造ろうとしたんです。海(内湾)へ放流するタイプの。

放水路(ほうすいろ)とは、河川からの溢水による洪水を防ぐため、河川の途中に新しい川を分岐して掘り、海や他の河川などに放流する人工水路のことをいう。分水路と呼ばれることもある。道路におけるバイパスに相当する機能を持つ。
日本の放水路には例えば新北上川(北上川の放水路)、大河津分水(信濃川の放水路)、荒川(隅田川の放水路)、新淀川、太田川放水路(太田川の放水路)などがある。

放水路 wiki
  • ところが、開削した放水路は落差が大きく、両岸が浸食されみるみる川幅が拡大した。川幅は藤井村・米津村で開削後160年ほどで6.7倍に拡大し、田畑や屋敷が失われた。
  • 上流から来る矢作川の流砂と浸食された土砂は内湾へ流れ込み、開削から35年程度で最初の河口(米津)から内湾の半島であった鷲塚まで、着物の裾を上げれば渡ることができるくらいまで埋まってしまった。そのため、内湾の北部(北浦)はいわば湖状に。北浦に流出する河川水や雨水が海に排出困難な上、洪水時は矢作川から北浦に水が流れ、北浦に面した村々は災害を受けるようになった。←北浦はその後規模を縮小しながらも、「油が淵」として現存。
  • 災害対策として、米津から鷲塚までの浅瀬を堤防にしました!その後も堤防の前に砂はたまり続けたので、緩衝地の意味も含めそこを新田として開発しました(陸域化)。北浦から矢作川への排水路(悪水路)も整備しましたよ
  • 流砂はさらに溜まり、下流にもどんどん溜まっていきます・・・そこで人々は、利害が異なる村々の調整を行いつつ順々に新田開発(陸域化)し、埋まった排水路を下流へ移し・・ ←と江戸時代以降延々とやってきたのが、この地域なのです! それをやりつくしたのが「現代」・・・とまでは真面目な冊子なので書いてないが、まあそういうことだね。
  • 矢作川水運の主要港は最初「米津」にあったんだけど、川に砂が溜まって河床が上がるのに合わせ、米津→鷲塚→平坂とどんどん下流に移って行きました。
  • それとは別に、碧海郡の先端「大浜」にも大浜港があり、ここは矢作川の流砂の影響はほとんどなく、また境川・矢作川の河川結束点でもあったので最後まで栄えることができました。←栄えた港町には、必ず立派な寺社仏閣だったり宗教行事(お祭り)があります。儲けは大きいけど、命の危険を伴う海の仕事には神仏の加護が不可欠だからでしょう。大浜にも寺院街があり、美術館もあり、ちょっと散歩にいいところ。その記事はこちら
  • 大浜港の歴史は古く、中世には三河の港としては唯一の年貢運送・取引業者(問丸)がありました。その後も栄えました。(←明治時代にできた三河鉄道の始発駅も大浜です。詳しくはこちらの記事をどーぞ)
  • 織田信長の初陣は、大浜の砦(大浜羽城)が攻撃目標でした。 

←大浜は、織田氏と敵対する松平氏(というか今川氏)の支配下でした。初陣として攻撃するには那古屋から遠く、攻撃難易度は高いです。ただし、織田家は尾張の津島湊(伊勢湾海上交通で栄えた港、もちろん問丸もある)を支配しており、そこの商人から多額の軍資金を得ている関係がありました。なのでスポンサーから「旦那ぁ、商売敵の大浜湊やってくだせえ、軍資金も弾みますんで!」と言われたのかもしれないね。

うん、見事な冊子でした(マニアにはね) 拍手!!