Wikipediaに項目が建てられている有名寺なのかな・・・
地元では「矢田のおかげん」で有名です。おかげん って何だべ?と思っていましたが、wikiの解説により分かりました。
旧暦2月15日頃(3月の最終土・日曜日)に行われる涅槃会では、読経に合わせて笙・笛・太鼓などの管弦が奏される。
おかげん=御管弦なのですな。 えーと、このお寺の文化財は天和3年(1683)建立の鐘楼門(市文)
まだありますぞ、非公開ですけど。室町時代の雲版(県文)、彰空宗永の書写になる『太子伝』(市文)、高麗時代の観音菩薩像(県文)、地蔵菩薩像(県文)、家康の裏書のある天満宮御影(市文)、薬師如来(市文)、釈迦一尊(市文)、弥陀三尊(市文)、蓮鷺(市文)、寒山拾得(市文) 西尾市のHPより。
写真奥に見える本堂は嘉永4年(1851)だし、山門は元禄12年(1699)建立。立派に見える本堂だけど、実は裏から鉄骨でサポートしている状態。そろそろ大規模な補修が必要な時期に来てるんだけど・・・ともあれ、下が山門の写真ね。
段差があって、立派な門構えですね。実はこれ、碧海台地の端に位置するからできる芸当。だから台地の下から見ると高低差が生じてるんだな。反対側からは全然高低差ないんだけどね。 地理院地図に、写真を撮った方向を記入したのが下。
寺の縁起は以下の通り。
大同元年(806)に勤操阿闍梨がこの地を訪れ、当時海であった東方の砂浜に霊亀が休み、その背に青衣八臂の弁財天が座っているのを見て、「この地こそ仏法の繁栄養寿寺写真地」と悟り、堂を建立したと伝えられます。
人がいたので写真を撮ってこなかったのが残念だけど、上の地図の矢印の左下に「池」があって、その中島に弁財天が祭られています。おそらく縁起にある亀に載った弁天さんだろうね。
10月11日写真を撮ってきましたので追加します。
弁財天にも、境内の地蔵堂にも地元のおばあさんが座って休んでいるし、他にも孫を連れたお年寄り、犬散歩途中のおじさん、隣の児童公園で遊ぶ複数の親子連れなど、このお寺はかなり地元の人に親しまれ、オアシスのように利用されているようです。本来あるべき姿として、大変よろしいかと存じます。「オマエに言われてもな」ですが、いいもんです。
まあ敷地も広いわけですが、そのわけは・・・
文明年中(1469~67)に徳川家康の大伯母、吉良義安の夫人である矢田姫(やたひめ)が当寺に埋葬され、その故を以って慶長7年(1602)に家康より36石の朱印地を賜ったといいます。
と 西尾市のHPには書いてあるんだが、家康の大伯母(祖父母の姉)だと、吉良義安夫人ではなく、一代前の吉良持広夫人じゃないかなあ? 吉良義安の妻で、家康の伯母に当たる人の墓は吉良の堯雲寺にもあるんですもの。訪問記はこちらです。
あるいは・・・義安は持広の家に養子に入ったけど、普通は持広に実の娘がいれば、養子はその娘と結婚するのが普通ですわな。(家康からみると「大伯母の娘」)
だけどその娘は不幸に若くして亡くなり養寿寺に葬られた。若くして亡くなったので「姫」と伝承され、、「大伯母の娘」がいつしか「大伯母」って伝わっちゃったと。 で、その後、義安は家康の伯母の俊継尼と再婚した・・・と。まあ想像にすぎませんが。この時代、女性は「誰々の娘」としか書かれないもんねえ。
追記:平野明夫「三河 松平一族」 洋泉社MC新書 によると、(このお寺に葬られている)「養寿寺玉林良久大禅尼」は、吉良家老臣の富永氏に嫁いだ信忠の一代前「長忠」の娘の法号だそうです。 (鶴寿会郷土史研究会「矢田姫を追う」(平成四年))
ち、ちなみに、義安の妻の墓はもう一つ、吉良の華蔵寺にもあります。
こちらは慶長年間没となっているので、俊継尼の墓その2だと思いますが・・・(偉い人の墓は、複数あることもあります!)
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